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March 15, 2012

Wireless

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明治の、どうだろう、10年前後に僕が生まれていたら、というやっ
てはいけない過去完了時制に対する if をしばしば夢想する。無論、
十中八九どうにもなっていないことではあろうが、万が一の当たりを
思ふて、あれこれ空想するが博打を打つ者の常である。

木村駿吉という立派な無線技術者がおった。ひと昔前にアマチュア無
線などを楽しんだおじさん・おばさんであれば、誰もが知っている物
理学者。1890年代後半、アメリカに渡りエール大学で学んだという国
際派は、その後、日本海海戦における、合戦前・及び合戦中の、無線
技術による情報伝達、という世界的な最前線の技術を駆使しての情報
インフラを設計し実装し、実戦に役立てた。実に偉大な功績であった。
司馬遼太郎さんの’坂の上の雲’では、合戦が終わったあとに、秋山
真之がわざわざ礼を伝えに訪ねたと、いう司馬さんならではの、技術
というものを尊重した名シーンがある。

それ、当時紅顔の青年であれば、木村駿吉氏の直弟子のさらに助手ぐ
らいにはなれなかったであろうか、と思ふわけである。歴史には残ら
ぬであろうが、木村氏の実験を一手に引き受けた精鋭の若手技師が研
究所にいた、とか、それ位の記述には引っかからなかったかなあと夢
見る。その仕事はとても面白く、寝食・人間関係は二の次、ぞっこん
突っ込めていたであろうことは、自分の性格から容易に予想できる。
モノを創るということを、幼少のころから楽しんできた。明治ではな
く、現代のようにモノが溢れていても、どこかに隙はあると思う。王
道ではなく、隙ぐらいしか狙えないあたりが、現代のつまらなさでも
あるが。

初めて社会人となったとき、ある会社に丸3年間お世話になった。技
術的にも社会的にも、様々な勉強をさせて頂いた。一度雇ってもらっ
たからには、その組織の利益に貢献する前に去るは卑怯である、とい
うポリシーは学生時代のバイト生活を通じてすでに僕のものになって
いたのだが、きちんと納得できるほどの利益を貢献する前に去ったこ
とは、まことに申し訳ないことをしたと、今でもしばしば思い出して
は悔やむ。木村駿吉氏は、海軍を退任後、日本無線電信電話会社とい
う組織の取締役に就任された。その組織は、僕がお世話になった会社
の前身にあたる。

投稿者 lib : March 15, 2012 10:58 PM

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