February 16, 2012
Writing
タッチタイプの有用性を以前書いたが、僕の愛する日本の小説家で、
原稿をキーボードで叩いている方は、まずおらんだろう。というか、
悲しいかな、おおかたすでに死んでしもうた。保守化ということも以前
書いたが、読み物も典型的なその対象であり、文学ということでは、
ここ何年も開拓が無いに等しい。日々のにぎやかなニュースも日経だ
けは読むようにはしているが、まったく面白くない。疲れた目で寝る
前の数分読むものといえば、マキャッベリであったり、なぜか技術書
のソフトウェア作法とかプログラム書法など、いずれも古典ばかり。
これら著者達を永遠の思想的友人と勝手に思いこみ、幸せな気分で床
に入る。もしタイムマシンがあったら、おいしい葡萄酒でも手みやげ
に、ピスタチオでも齧りながら、ゆるりと彼女・彼らの薀蓄をお聞き
したいものである。
こうしてブログなどで、駄文を起こす者にとって、筆一本でどうして
その長大な起稿なり推敲なりをされておられるのかと、畏怖さえ感じ
る。作品群が素晴らしいだけに、彼女・彼らの文章に関する直感力に、
ただただ恐れ入る。僕にも、少年のころの遊び作りや、社会人になっ
てからの電子回路・システム設計、ここ10年の起業・企業仕事など
を通じて、ゼロからモノを作りあげることの苦しみは多少共感できる
かもしれないが、まったく比較にならない、そして永遠に残るであろ
う質の表現を生み出すのが文章のプロ達である。だからこそ、人を
moved させ、広く知られるということになるのであろうが、いやはや
同じ人間でありながら・・・と驚嘆するしかない。
しつこくなるが、寝る前に同じ小説やら歴史モノを何度も読む。これ
は、TVの水戸黄門シリーズ(残念ながら最近終わってしまった)に
似て、ハピーエンディングが完全に分かっているという保守的な安心
感があるのかもしれないが、実はそうでもなくて、何度も何度も読み
返すマキャッベリの一行に対して、覚える共感の度合いとか、僕のま
わりの現実に照らしてみた例とかが、毎回違うのだから面白い。良き
書き物とは、読み手のそうした毎日の心理の違いでさえも前提にして
工夫をされているのかと思うと、その深さにゾッとする。無論、例え
ば僕の敬愛する塩野七生さんなど言わせれば、あなたプロに向かって
馬鹿言わないでよ、などと一蹴されるのであろうが。
投稿者 lib : February 16, 2012 11:11 PM