« June 2008 | メイン | August 2008 »

July 29, 2008

5歳児に、「日本」について語る その3

mama.gif


軌道を修正して、食生活だ。
「日本人は鯨を食べますが、それが国際的に大きな顰蹙をかっています」

などのControversialな話題は当然避けるとしても、図書館で借りてきた本の中の写真の、朝食風景らしい日本人家族の食卓には、なぜかソーセージと目玉焼きとオレンジジュースがのぼっていた。
なぜ、味噌汁とご飯とアジの開きのトラディショナルな朝食でなく、ソーセージと目玉焼きなのか。
編集者の意図が分からないが、とりあえず

「……こ、このように、日本人もソーセージや卵を食べます…」

と写真を見せながら言うと、先ほどの「10ミニッツ」の子が、

“Just like us?”

とナイスな、合いの手を入れてくれた。

「そう!Just like you! でも、その他に魚も沢山食べます…」

と日本食につなげる。

本には、日本の古い木造の家と高層ビルの立ち並ぶ新宿の写真も載っていたので、それも見せた。
なんだか意図せずに、食、住の「古い日本」と「新しい日本」の対比のような進行になっている。
(子供達が分かってくれたかは怪しいが)

「古い木造住宅」の方は、私でも
「もう少しましな家はなかったのか…」
と思うほど古い「あばら家」で、何人もの子供達から

「そこに人が住んでるの?そこに人が住んでるの?」
と質問された。

「(多分)住んでる、(と思う)よ…」
と自信のない返事をした。

さて。
突然だが、私は昔から
「西洋人の木造住宅についての偏見」
について、不本意に思っていた。

絵本「三匹の子豚」では、木造とわらぶきの家は吹き飛ばされてしまい、レンガの家だけが残る。
(木造の家は怠け者の作る弱い家 by西洋人)

イギリスに来た頃通っていた英語学校のテキストには、
「レンガの家はコストがかかるけど頑丈である。木の家は安いけれど長持ちしません」
という、驚きの一文が載っていた。
(木造の家は貧乏人の安い家 by西洋人)

各地の気候や地形などの自然条件を無視し、レンガの家=最高と決め付ける、これぞ西洋至上主義。
無垢な5歳児達が洗脳される前に、真実を伝える良いチャンスだ。

「日本の伝統的な家は木でできています。なぜなら日本には地震があって、大きい地震が起きた場合、レンガの家ではとっても危ないからです…」(他の理由もあるだろうけどとりあえず)

ここぞとばかり熱弁をふるっていると、子供達が退屈したような顔になってきた。おかしいな。
ここで秘密兵器、ポケモンに登場してもらうことにする。

「という訳で、日本は遠いけれど、イギリスでも日本のものは身近にありまーす」

と、ポケモンの絵を見せた。
子供達の顔が急に輝く。

「ポーキモン!」
と今までおとなしかった子も叫びだす。

「ポーキモンだけじゃありません、じゃ~ん」

とパワーレンジャーを見せると、男の子たち大興奮。すでに戦いポーズをとっている子もいる。
ふっふっふ。まんまと手の内にはまったな。

「女の子の好きなものも持ってきたよ~」
最後にキティちゃんを見せると、
「Hello Kitty~」
女の子たちがとろけそうな顔を見せた。

きゃー、女の子って可愛いー。
普段息子や、息子の友達の野郎どもとばかりと接しているので、この女の子たちの反応に私が萌えた。

と、少し子供達の目を覚ました後に、
「こんにちは」をお辞儀の実演つきで教えたり、数を1から5まで教えた。

ちなみに数の数え方は、以前大人に教えた時に、
1(itchy=痒い)、2( knee=膝)、3( sun=太陽)、4( sheeh!=シー!)、5( go=行く)
と教えたら覚えやすかった。
今回もその方法で行こうかと前夜に息子の前で予行練習をすると、どうも彼が腑に落ちない顔をする。

「日本語を教えるのに、何で英語なの?itchyは英語だよ」

そうか、子供はへたな語呂合わせをしたらかえって混乱するかも。
そのままの音をストレートに受け止めてくれるだろうから、語呂合わせ作戦は無しにした。

子供達は「コニーチワ」ではなくて「こんにちは」と、1,2,3,4,5もスムーズに繰り返してくれた。
いい感じなので「6から10もやる~?」と聞くと、先生だけが大きな声で
“Ye-s!!”子供たちは流石に飽きてきたのか首をふっていた…。とほほ。

時間もいい頃だと思って、お開きにした。

次の日、同じクラスの子のお母さんに会うと、
「家で、日本の話をしていたわよ。数の数え方とか覚えていたわよ~」
と言ってもらえた。

後日先生と話した時も、朝の出席のとき、それぞれ好きな言語で「おはよう」を言うのだが、クラスの大半の子供がお辞儀つきで「コンニチハ」と言うとのこと。うれし~。

私自身の感想としては、子供達が質問をするときに必ず手を挙げるように言われているのが印象的だった。
イギリスで自分が何かのクラスに通ったときには、皆自由に発言していたので、手を挙げて指されなければ口を開いてはいけないのは「日本式」かと思っていたが、最近は変わったのだろうか。
それとも小学校の頃にそのように仕込まれても、年齢が上がるにつけてコントロール不可能になっていくのだろうか。
どなたか詳しい方がいたら教えてください。

私自身も気づかされる事が多く、新鮮な体験をさせてもらったし、今まで日本に興味のなかった息子もこれをきっかけに
「日本もそれほどBoringでもないのかも」
と前よりは興味をもってくれたような気がする。

それにしても、「言葉の通じない人々」と毎日接している先生は本当に大変な仕事だな~と実感。
低学年には低学年なりの、高学年には高学年なりの難しさがあると思うが、いつも笑顔で子供達と接している先生方に頭が下がる思いでした。


投稿者 lib : 10:49 AM | コメント (2)

JPY 220

shacho.gif

東京人が今年は厳しいと言ふている暑さの中に居る。出張前に、7月
下旬の東京は暑だろうとそれなりの心構えはしてきたが、天気予報な
どをみると、東京以上に暑い地域が日本にはいくらでもあることに気
づいた。

日本は暑い。例外として、北部の一部はそれほど暑くもない、という
のが正確なところであろう。函館出身の在英18年のぼくにはもちろ
ん残酷なぐらい厳しい。バテぬよう、毎夜ビールなどできちっと涼み
ながら、残りの出張仕事を進めようと思う。

6月に来た前回の出張は1年ぶりのものだったので、いつもどおり肩
に力が入っていたが、今回は大分東京に慣れてきたような気がする。
ざっと、その慣れ具合を並べてみよう。

- 東京到着二日目には、エスカレーターで、さほどの疑問なく左側に
すっと立てるようになった。

- 外出時は、ハンカチを常時携帯するようになった。

- 風呂がほしいと思わなくなった。

- Suicaカード(JR系)が地下鉄でも使えることが分かったので、
Pasmoカード(東京メトロ系)を返却した。こうしたカードは定期入
れに2枚重ねると誤動作するので不便だった。ありがたい。ちなみ
に、Oyster と Suica を重ねるとどうなるか、明日にでも試験して
みようと思う。

- ちなみに東京メトロとは、営団地下鉄が民営化した後の通称である
そうだ。

- 朝9:30を過ぎると、ホームの喫煙場所でタバコが吸える駅があり、
毎朝助かっている(阿佐ヶ谷)。

- 街にいる人に道順を聞かずとも、プランタン前に一人で行けるよう
になった。

同時に慣れないものがある。最もまずいのは、すべてGBPに計算し
なおしてしまい、なんて安いのだと、無駄遣いしちゃうことである。
これはなかなか直らないが、ふと気づいた。そうだ、英国に居るとき
には、いつもJPYに計算しなおし、なんて高いのだと節約すれば・・・

投稿者 lib : 08:56 AM | コメント (1)

July 25, 2008

Empty Desk

teacher.gif
火曜日で無事に今年度が終了しました。

午前中は終業式で学習態度、生活態度など様々な条件に照らし合わせて各教科や学年から選ばれた生徒たちを賞を授与するセレモニーがあり、生徒は終了後帰宅。午後はスタッフのお別れ会、そしてその後、校庭でスタッフの食事会がありました。

ロンドンの都市部の学校では普通かと思いますが、毎年、というか毎学期、スタッフの入れ替わりがかなり頻繁にあります。

産休・育休に入る教師、戻ってくる教師、そして新しい職を得て去っていく教師、新しく採用されて働き始める教師(常勤・非常勤を含め)など、常に人の動きがあります。

特に学年度の終わりに合わせて学校を離れる教師は毎年多く、今年も少なくとも常勤教師5人、短期の契約で働いていた教師も数人、去ることになりました。

そのうちの3人が実は私のFaculty(学部)からで、1人は今までも何度も私のブログに登場してきたHead of Facultyである同僚Kです。

同僚Kは過去ブログ「嬉しくも悲しいニュース」で書いたとおり、私の直属の上司であり、私がこの学校に採用されてからの4年間、常に私の一番身近な指導員そして同僚でした。

その彼女が結婚してロンドンを離れるため、それを機に退職することになったのです。

それを知ったのが3月の初め、それから約5ヶ月、実感の涌かないまま時は過ぎ、気がつけば今年度も残りわずか。そして、ついに同僚Kが私の学校から去る時が来たのでした。

スタッフの送別会では離職する教師に向けて校長がひとりひとりの功績や功労を称えた後、各学部・学科の同僚たちがスピーチを行い、プレゼントやカードが手渡されます。

同僚Kには同僚M(同じく歴史教師で私と一緒に学科主任をしている)と同僚L(宗教、社会学の教師)が合同でスピーチをおこない、その後、同僚Kもスピーチをおこないました。

実は彼女、今回離職する先生の中では一番勤続年数が多く、7年でした。ロンドンでは1,2年で違う学校に自ら移る先生が多いので彼女は長いほうなのです。

その7年間の思い出を語りつつ、彼女はHumanities Facultyの一人ひとりに向けてメッセージをくれました。

彼女のいった言葉、一生忘れられない本当に嬉しいものでした。

「Mと月子(←もちろん実際は本名で)、あなたたちは教師暦は二人合わせても私のより短いけれど、私に歴史教育って本当は何なのか、よい歴史教員になるってどういうことなのか、たくさん教えてくれたのはあなたたちです」

歴史教育はここ5-6年でも教育理念そのものやITなどの技術面の変化に影響され、大きく変わった部分がありました。私もMも割りと最近教職トレーニングを受けた方なので、同僚Kよりもこの流れに乗りやすかったのだと思います。

同僚Kはいつも私の教材や授業案を高く評価してくれていたのでそれが私の励みでもありました。なにせ、生徒指導の面ではいつも威厳に満ちた同僚Kには頭が上がらず、彼女に相談したりして頼ることが多かったのです。

歴史科は教師がもともと少ないので常に私たち3人は上司と部下、先輩と後輩の枠を超えて新しいアイディアを出し合ったりしながら進んできました。一方通行ではない対等な関係が築けたことは本当に幸いでした。そして彼女のスピーチは私を教師というプロフェッショナルとしてそして一個人としても評価してくれたようで嬉しかったのです。

木曜日、学期は終了し夏休みに入ったものの、同僚Kが自分の机や教室を片付けに出てくるというので、私も9月からの準備をしに学校に出ることにしました。これが彼女の契約上での最後の日なのです。

どんどん彼女の机から物が消え、目の前に貼っていた色とりどりのポストカードも剥がされ、しまいには後任者であるOへ引き継ぐファイルだけが寂しく机に残されました。

そして学校が閉められる午後5時、本当に彼女にお別れを言う時がやってきました。笑って「幸せにね。さようなら。また会おうね」と言おうと思っていたのに、ハグした瞬間にやっぱり感情がこみ上げてきて涙が出てしまいました。

思えば、仕事でつらかった時、私の日本にいる身内の病気が分かって動揺していた時など様々な場面で話を聞いてくれてアドバイスをくれたのは彼女でした。

普段はあまり感情を表に出さない同僚Kは周りにわりとクールだと見られがちなのですが、本当はとても温かい人なのだと私は知っていました。その時々のことがいっぺんに頭の中をめぐり胸が熱くなりました。

「やぁねぇ、あなたに泣かせられちゃったわ」と見ると彼女の目にも涙が。

感動的な別れでした。

またいつか会える日があるとは思いますが、もう彼女が学校に来ることは無いのです。

、、、本当に寂しくなります。

投稿者 lib : 03:06 PM | コメント (0)

July 22, 2008

気になる人々 その1(coco)

darling.gif
英国に来てからいろんな人種の方々を見たり接したりしているが、とりわけ興味があるのが、Jewish(ユダヤ人)。それもユダヤ教の信者でかなりオーソドックスな人たちにとても感心があるのです。これは、彼らが多く住む北ロンドンに住んだせいかもしれないな。
彼らは、夏でも、冬でもスタイルは変わらず、黒いコートを来て、毛の帽子をかぶり、ヒゲをはやし、クルクルとカールした髪型の男性に対し、女性は、こんな服何処で売っているの?というくらい素朴で質素な昔風の服装をしている。そして、いつも沢山の子供を連れているのが特徴だ(少子化なんて関係ない)。独特な生活スタイルが宗教と関係しているのは分かるけど、もっともっと秘密?を知りたいワタシです。

これまでに私が知ったことは、結婚すると奥さんは、頭を剃り、カツラをつけるそうだ。まあ、髪を剃る=女の魅力を半減して、家庭安泰を試みているのでしょうけど。だからつい彼女達のカツラに目が行ってしまいます。そういえば、彼女達のスタイルに、帽子やスカーフ覆いが多いな。
男性が被っている円形の大きな帽子シュトライネルは、テンの毛で出来ていて、高価なものは2000ポンドもするとか。これは花嫁の父が2つ!を婿に買ってあげるのが習慣らしい。まあ、毛皮の一種だから高いのは仕方がないけど、2つの帽子とは、2つを一生の間使うのでしょうか?
男性のコートも限定された素材で作られた物を着るのが原則で、こんなイギリスの夏だからいいけど、イスラエルなどの暑い国ではあのような冬服を着ているのはさぞ暑くてつらいことでしょう。(耐えると言う教えを守るのは大変ですね。)

食生活も厳しく、ミルク等などのデイリー品と肉は一緒に食してはいけないし、一緒に保管してはいけないようだ。だからきっと冷蔵庫は2つあるだろうし、厳格な家庭はなんと台所が2つあるも設置してあるとか。その他、エビ、蟹などの甲殻類や貝は食べられないし、豚もダメ。肉は、ユダヤ人が屠殺したものしか食べられないそうだ。 北ロンドンにいくと彼ら専用の肉屋やコーシャーバーガーなどのレストランを見かける。そうそうスーパーマーケットには、大概彼らのためにコーシャフードコーナーがある。

私の人生の中でこれまでに彼らとかかわったのは3度。1度は、家を探している時の大家として。家具付きの不動産だというのに、かけ布団もないし、枕も、シーツもない。そして台所では、コップ、鍋、皿がほとんど置かれていなかった。うーむ、倹約家(別名ケチ)ということらしい。いろんな意味でそこには住まなかったので、それ以上の情報が得られず残念だった。2度目の関わりは、歯医者の先生だ。これ先生、なかなか腕がよかった。土曜日もオープンしているので、あれ?安息日でも働けるの?と聞くと、自分は宗教を持たないといっていた。今は何処で開業しているのか、またお願いしたい。そう、ユダヤ人は器用だ。3度目は、なんと日本で出会った。友人の母親の葬式がラバイ(司祭のようなもの)によって執り行われた。なんと友人も知らなかったのだが、母親はユダヤ教に入信していたそうだ。ユダヤ教の世界制覇はここまできているのか。
なんとも日本でお目にかかるとは因縁深いと、益々興味を持ち、ユダヤ人の関するテレビ番組があると必ず見たいし、もっともっと知りたいと思っている。早く4度目、5度目と彼らとかかわる機会を増やし、見聞を広めたいと思う私です。彼らとの接点を増やす方法があったら、ぜひ教えてほしいです。

投稿者 lib : 11:34 PM | コメント (0)

5歳児に、「日本について語る」 その2

mama.gif
息子の学校で「日本のことについて話す」日の前日、担任の先生と話した。

「明日はよろしくお願いします。ベーシックな事でいいので…。天気とか、何を食べているとか…」

ピカチュー以外にも何か話さなければ…とは思っていたが、何に絞るか決めかねていたので、先生が言っていた「天気」と「食生活」をそのまま採用。
他にネタはないかなと思い、近所の図書館に行くと、その名も“JAPAN”という小学生向きの本があった。
写真も豊富なので、これは良い小道具になりそうだ。
他に、日本の位置を説明するために、世界地図(こちらのものなのでイギリスが真ん中)も持ち込むことにした。

前夜、息子と夫を前に予行練習。
寿司好きの夫は、「日本人は生の魚を食べます」のところで目を輝かせていた。
予定通りの15分くらいで収まったが、夫に感想を聞くと、
「寿司のところが良かったな…」
と涎をたらしながら、まだ目を輝かせていた。
どうもチェックのしどころが、間違っているような気がする。

「たまに子供達にこっちから質問したらいいんじゃない?日本のことについて何か知ってる?とか。インタラクティブな方が飽きないし」
と言うので、
「へ~い」
と素直に助言を聞く。

当日の朝は、息子を学校に連れて行き、そのまま子供達と一緒に教室に入り出席をとった後に私の出番となった。

夫の助言通り、まず子供達に
「日本のことについて何か知ってる~?」
と聞いてみる。(インタラクティブ、インタラクティブ…)

子供達、シ~ン。

先生が、助け舟を出してくれた。
「日本のことについて、習ったでしょう?日本は遠いの?近いの?」

と子供達に聞くと、一斉に
「ファ~~~!!!」

なるほど、大人だって質問があまりにも漠然としていると答えにくいものな。
質問をするときは、Yes,Noで答えられたり、的をしぼった質問の方が良さそうだ。

「そう、遠いんだよ~。イギリスから飛行機でどのくらいかかるか知ってる?」

と「具体的に」聞くと、何人かの子供が手を挙げた。

その中で一番早く手を挙げ、自信満々だった男の子を指すと、

“テン……”

というので、おっ、10時間か、いい線いってると思っていると、

“ミニッツ…”

思わず、椅子から転げ落ちそうになった。君、間のとり方うますぎます。

そして世界地図で日本の位置を見せた。
イギリス中心の地図だと、日本は東の一番端っこにちょこんと浮かんでいる。
次に日本地図を見せて、東西南北に長い日本の天気などを説明。
地図をじっと見ていた男の子が手を挙げ
“Where do you live?”
と聞く。

私がまだ日本に住んでいて、毎朝息子をロンドンの学校まで送り届けていると勘違いしている節もあるが、とりあえず
「Tokyoに住んでいたのよ(本当は近県だけどTokyoと言っておくのがわかりやすい)」
と答えた。

すると、他の子が手を挙げた。その子を指すと
“Where do you live?”
と同じ事を聞かれた。

「Tokyo」
と答えると、今度はクラスの半分位の子が手を挙げた。

その中の一人を指す。またもや
「あなたはどこに住んでいるの?」

「ト、トーキョー……」

このままクラス全員一周するまで同じ質問に答えなければならないのかな、と思っていると、傍らで聞いていた先生が
「みんな、ちゃんと聞きなさい!トーキョーって言ってるでしょ!」
と怒っていた。

すると、他の子がめげずに
“Where do you work?”
と質問を変えて攻めてきた。

日本から息子をロンドンの小学校に送り届けた後、また日本に戻って仕事をしていると思われている節もあるが、とりあえず
「Tokyoで働いていたのよ」
と答えると、また他の子が手を挙げて
「あなたはどこで働いているの?」


……先生に怒られていた。

ああ、5歳児ってこんなもんなんだなあ。
他にも、こちらが何か聞いた後、自信満々で手を挙げる子がいるので指すと黙りこくってしまったり、ジャパニーズアクセント云々以前に、「ネイティブの言葉もよく通じない人々」なのだ。

ところどころで脱線してリハーサル通りにはいかないが、素でコントをやっているみたいで笑ってしまった。
でも先生は私に気を遣ってくれてか、
「もう質問はいいから、お話をきちんと聞きなさーい!」
と質問禁止令を出していた。

つづく

投稿者 lib : 11:28 PM | コメント (2)

July 19, 2008

Japanese Experience

teacher.gif
先週の火曜日はHumanities Faculty(宗教、社会学、歴史、地理などの教科が集まる人文学部)の同僚たちと一緒に夕ご飯を食べに行きました。

大体一学期に一回のペースでそういう企画があるのですが、今回は学年末、しかもうちの学部から3人も教師がいなくなるので、そのお別れ会も兼ねて。学校全体で行う正式なお別れ会もかねた食事会は来週火曜ですが。

さて、どこに行こうかと話し合い始めたのが2-3週間前。今まで行ったのはポルトガル風炭火チキンのチェーン店、中華料理屋2軒、インドなど中央アジア料理屋4軒(そのうち一軒はバングラデッシュ系の同僚たちが絶賛し、行列が出来る東ロンドンの隠れた名店)。

やっぱり地域性でインド料理系が多いです。それから、Lime Houseという駅の近くにある中華料理屋は同僚に人気で2-3回行ったでしょうか。

で、今回は、バングラデッシュ系の同僚たちの希望で「カレー以外のもの」となったため、じゃあ、また中華になりそうだったのですが、同僚の一人が「Japaneseは?」と言い出しました。

実は学校の最寄り駅のすぐ近くに日本食レストランがあるんです。ただ、そこのレストランは夜の6時じゃないとオープンしない。私の同僚は宗教だけでなく様々な理由でお酒を全く飲まない人が多いので、開店時間になるまでパブで飲んでようということも無い。さらにもともと早く帰りたい派が多いので、その日本食レストランは自然却下され続けてきました。

私もずっとその存在は知っていたのですが、どうもプライベートでわざわざそのレストランに行くのは学校にも近いし躊躇われ、行くことのないまま4年が過ぎていました。

それが今回、驚くことに「たまには遅くからでも(っていっても6時なんですけど)いいじゃない」とみんなの意見が珍しく一致し(なかなか個性派集団なので)、めでたく日本食レストラン行きが決定いたしました。

実は一人を除いて私の同僚たちはほとんど日本食を食べたことがありません。知っている食べ物はSushiくらい。たぶん日本食と中華料理の違いも知らないし考えたこともないはず。

当日、レストランに到着後、メニューを眺める同僚たち。、、、1分後(いや、30秒後?)、気がつけば「あなたが頼りよ」的な目線が私に集中。

まず、メニューの先頭にあったGunkan MakiとHosomaki、Temaki、Nigiriの違いは何か?という質問に始まり、この魚は英語で何か、材料には何が使われているのかと質問攻撃。

「軍艦巻きは形が軍艦に似ているから、、、」と説明しておいて、「そっかぁ、そうだったよね」と心の中で自分でも妙に納得。日本をほとんど知らない人に私の限りある知識を総動員して日本食指南。心の中で結構あせる自分がいました。

でも、さすがロンドンの日本食レストラン、スタッフはたぶん一人を除いて全員中国系の人。そして、豊富なメニューの中にはチャーハン、餃子、キムチなど、日本でも広く食べられてはいるけど厳密には日本食でないものが並んでいました。なかには聞いたことも無いものが並んでいたのでこれにはさすがに「日本でも食べたことが無い」と強調しておきました。

さてさて、20分後くらいにやっと、皆それぞれ食べたいものが決まり、それから前菜として頼んだ寿司(←こういう頼み方がすでに日本じゃないですよね)やら餃子やら枝豆を頬張って待つこと、数十分、みんなのメインディッシュが到着。

私が頼んだのは天麩羅弁当。なぜかイギリスでは日本でいういわゆる○○御膳みたいなセットものが「○○Bento」として一般に認識されています。味噌汁が付いて、大きなお弁当箱にご飯、サラダ、小鉢系のもの、メインのおかずが入っているようなものです。

一応、同僚にはこれを薦めておいたので、何人かはBentoを注文。ほかにはラーメン、チャーハン、焼きうどん、中華丼を頼んでいる同僚がいました。日本だと町の食堂かラーメン屋に出てきそうな内容ですよね。でも、よっぽど日本人しか行かないレストランではないと日本食レストランってこんな感じが結構多くて、みんなが頼むのもこういう系が多いのです。

で、肝心なお味はというと、、、。

うーん、天麩羅はいまいちでした。すごく正直に言ってしまえば、私でもこれくらい作れると思ってしまう感じ。そして、普段から大抵のものを心から美味しいと思える大食いの私でも、特にだめだったのが白ご飯でした。水気が多くて粒がぐちゃぐちゃにくっついているような感じなのです。

決して食べれないものではないんです。ほら、お腹のすいている私の胃袋にはしっかりとおさまりましたから。

ここはロンドンだということもわかっているのです。でも、私は心の中でかなりがっかりしてしまいました。最初に頼んだお寿司はロンドンの基準で普通に美味しかったのですけれどね。

同僚は皆「うんうん、結構おいしいよ!」と言っています。まぁ、反応が微妙な人もいたので両手を挙げて美味しいとはたぶん思わなかったのでしょう。唯一チャーハンを頼んだ同僚二人があまりの脂っこさにはっきりと不満を言っていたので、味見させてもらったら皿の底の方は本当にご飯が油がびしょびしょ。これについては私もすかさず同意。

でも、他の楽しんでいる同僚にはどうしてもわざわざ「あんまりおいしくない」「これは日本だったらねぇ」などと言えず、しかもあの場で日本食について講釈を垂れるような身分でもないと思い、ひたすら黙っていた私でした。

真の日本食伝道師にはなれそうもない私です。同僚たちとの初Japanese Experience…まぁ、おしゃべりできて楽しんだから良しとしますか!

投稿者 lib : 10:05 PM | コメント (0)

July 17, 2008

Being wild

shacho.gif

三島由紀夫氏の産湯の記憶を読んで、ほんまかいなと思っていたが、
女流作家が同じような体験をエッセイに書かれているのを数年前に読
んだ。将来作家となるような乳児は、すでに頭の構造がどこか違うの
だろう、ありえるのだなあと思った。

凡人の僕が記憶ということを始めたのは、5、6歳前後だと思うが、
その頃家族が生活していたのは北海道の南部にある泉沢という小さな
村だった。車で函館市から西に1時間弱走ると、木古内という町に至
るが、その一部が泉沢というなかなか洒落た地名の村落である。海と
山に挟まれたごくわずかな平地、その幅は200メートルも無い思う
が、海岸線に沿うように国道228号線が走っており、この両脇に二
百世帯もあっただろうか、小さな家屋が建ち並ぶ村だった。山沿いに
は国鉄の線路が走っており、その脇に円筒形の小学校が建ち、体育館
の裏口には教育職員住宅が3件並んで建っていた。最も線路に近いの
が僕が数年間暮らした家だった。山まで徒歩20秒、海岸まで徒歩1
分という、実にワイルドな環境だった。

夕食やら家の手伝いに無理やり呼び帰されることはあったのだろうが、
子供達が外で遊ぶのに、親がついてくるということは皆無であった。
山や川で多少危ないこともあったのだろうが、年長の子がリーダーと
なり、なんとかする。この村の子達が10歳にもなれば、万一山で一
人で迷子になっても、雨さえ降れば1週間や2週間は難なく生き延び
るだろうと思う。喰える草の茎や花の葉等の種類を知っており、蕗の
葉を使った雨水の飲み方を知っているからであり、川に出くわしたら
しめたもの、と小さな頭が覚えているからである。もっとも、ヒグマ
に出くわしたら死んだふりをするという迷信は頭に入っていたが、運
よく経験したことは無かったので、本当にワークするのかどうか分か
らぬ。いずれにせよ、当時の日本の田舎の子供達というのは、おおよ
そこうしてワイルドに育ったのではないだろうか。そんな話を都会育
ちの同居人にすると、東京でも子供達が広場で遊んでいるところを親
がいちいち見ていたということは、やはり皆無であったらしい。

我が家のミニ同居人の学校のことをそろそろ考えねばならぬという。
まだ八ヶ月だというのに。いや、生まれる前から入学予約を入れるこ
ともあるそうな。いやはや。泉沢には幼稚園も無かった。円筒形の小
学に入学したら同級生は20名だった。社会性という意味でわが身を
振り返ると、確かに若干問題があるやもしれぬ。。。とはいえ、今3
0名の社員の皆さんと組織的な仕事をさせてもらっているし、友人達
にはとてもよくしてもらっている。ミニをナーサリーに入れることが
不可欠なのかどうも分からぬが、多分入れることになるのかなあとも
思う。思うが、泉沢村で育った父には、どうにもミニが気の毒なので
ある。学校の庭で先生や親の目の届く範囲で遊ぶのもやむをえないが、
少なくとも年に2度や3度は、少年達だけで山を探検したり、川で多
少勇気が必要な遊びを経験させてあげたいなあと思う。

投稿者 lib : 09:51 PM | コメント (0)

July 16, 2008

英国のバブルはじける?(COCO)

darling.gif
我が家の上に住む人が、不動産会社に自分のフラットの相場を見積もってもらった。
期待をかなり下回る価格を言われたようで、売るのを辞めたようだ。
そう、ニュースではリセッションなんていわれているけど、リアリティーがまだ一般庶民にはない。しかし、ついに私の周りにも嫌な話が入って来た。

友人のダンナは、CITYで働いている。なんと知らなかったが1ヶ月も前にリダンダンシー(解雇)をされていたそうだ。しかし、このカップルはおおらかだ。CITYで働いている以上、解雇はつきものよ。今は、夏休みで就職活動には向いていないから、焦ってもしかたがないのよ。と友人はいい、2ヶ月間のバカンスに出掛けて行ってしまった。こんな奥さんだから、ダンナもあまり気にしていない様子。確かに解雇にともない補償金をもらい、それで貯蓄を殖やす人もいるそうだから、この世界のことはよくわからない。

もう1組は、悲惨なことになった。
同じくCITYで働くダンナが、 リダンダンシーされてしまった。しかし、奥さんには、言えなかったようで、大家が家賃を滞納しているため催促に来た際に事態は発覚した。
この家は、夫婦共稼ぎで家賃も半分ずつ支払う。奥さんが家賃の半分をダンナに渡していた。ダンナは仕事がないから、家賃も払えず、その上、お小遣いもない。よって奥さんから預かった家賃のお金をつい使い込みをしてしまい、家賃滞納となったのだ。こうなると妻は妻で、騙されたと思い喧嘩が耐えない。ダンナは次の仕事も見つからない。その上、一緒に数人が解雇させられたのに、その内何人かが同じ会社に再雇用されたそうだ。しかし、 自分には再雇用の声が掛けられなかった。なんで?なんで?なんで?自分には声を掛けてもらえないのだろう、と思えば思うほど、精神的につらくなり鬱になってしまった。貯金は底をつき、そして、ダンナは引きこもりになり、ついに心配した彼の家族が登場してくる。40才を過ぎている息子であっても母にとってはいつまでも子供だ。傷つき弱っている息子を見て、実家に戻るように勧めた。そして息子もその暖かく差し伸べられた手にすがり、ついに実家に戻る決心をした。日本人の妻は、反対できるであろうか?ついに田舎に引っ越してしまった。

うーん。これが我が家だったらどうするだろうか。私もダーリンの田舎で生活するってこと?クリスマスで過ごすのとは違うよね。ずーとそこで住むのだ。正直言って、つ、つらい。
だって、ダーリンの街には、ハイストリートは短くて1本しかない。好きな洋服店が1軒もない。言葉がみんな訛っている。日本人なんて認識はできない。日本食も手に入らない。できないなーというと、ダーリンはきっぱりと言った。自分もあそこではもう生活出来ない。そうだよ。そんな時は2人で日本に行こうと言っている。日本に帰ってもねー。考えさせられる出来事でした。

投稿者 lib : 03:15 AM | コメント (0)

July 11, 2008

東ロンドン再発見

teacher.gif
今日のブログは先週の予告どおり、東ロンドンの歴史についてです。

ロンドンに住んでいる皆さんはEast Londonにどのようなイメージをもっていらっしゃるでしょうか。

東ロンドンといってもBankやLiverpool Street、Tower Hill、Monumentといった駅の周辺はロンドンの金融の中心地ということもあり、常にスーツを着たビジネスマンで賑わっていますが、それよりも東にあるAldgate East、Whitechapel、Mile End,そして私の学校のあるBowという地域はどうも「労働者階級・低所得者層の居住地域」「犯罪多発地帯」というイメージが強いように思います。

実際、この地域はTower Hamletsという行政区で統計上、ベネフィットをもらって生活している低所得者が多いのは事実ですが。西ロンドンで生まれ育ったイギリス人の友人の中には「東は怖いイメージがある、できれば住みたくない」という人も結構います。

確かに東ロンドンは再開発が進んでいるとはいえ、殺伐・雑然とした雰囲気のある通りが今も多くあります。過去数百年の歴史を見ても、政府からは見放されがちな低賃金労働者の住む貧しい地域でありましたし、住環境も恵まれないものでした。

昔は重要な交通網であったテムズ川や運河が多くある東ロンドンは工場や船着場が多くあった場所であり、第一次世界大戦ではドイツ軍による空襲で一番大きな被害を受けた地域でもあります。そのため、ロンドン中心地や西ロンドンのようにしっかりと手入れをされてきた古く歴史のある邸宅が立ち並ぶという風景も限られています。

しかし、昔の面影を残すものは少なくても歴史を紐解くと東ロンドンは非常に興味深い地域であることがわかります。テムズ川にも近いAldgate East周辺は常に移民の玄関口だった地域であり、ロンドンが現在のように多文化・多宗教・多民族の都市となったルーツを探ることが出来ます。

その一番良い例がBrick Lane。カレー屋さんやナイトクラブ、バーに行くために訪れたことのある人は多いかと思います。今ではすっかりバングラデッシュ移民が経営するカレー屋の立ち並ぶバングラタウンとしてのイメージが定着しました。

それに加え、ここ10年くらいでは若いアーティストたちの活動の中心地としてたくさんの若者が暮らし集うようになりましたが、驚くことに19世紀後半から20世紀初頭までは人口の90パーセントがユダヤ人という地域でした。

さらに歴史をさかのぼれば、17世紀にフランスから宗教弾圧を逃れてきたプロテスタントのThe Huguenots(ユーグノー)たちが移住してきた地域であることが今も残る通りの名前や教会など建物の様子から分かります。かつては彼らがフランスから持ち込んだ絹織物産業の中心地でした。その産業に惹かれ、ユダヤ人、アイルランドや北イングランドからも織物職人たちが移り住んだこともあったということです。

そして、19世紀後半にはロシアから宗教弾圧を逃れてやってきたユダヤ人の移住がピークに達し、一時は150ものシナゴーグが東ロンドンにはあったということです。その歴史の変遷を象徴するユニークな建物が今でもブリックレーンに残っています。何と、もともとユーグノーの建てた教会が後にユダヤ人によってシナゴーグに変えられ、ユダヤ人たちが東ロンドンを去ってからはモスクとして使われるようになったのです。東ロンドンの移民の歴史の縮図ですね。

その後、絹織物産業が廃れるとともにこの地域も廃れ、小さな織物産業は存続したものの、産業革命時代の終わり、19世紀後半までには犯罪、売春、貧困の巣窟となってしまったのです。コレラがロンドンを襲ったときも真っ先に伝染したのが劣悪な居住環境だったこの地域でした。切り裂きジャック(Jack the Ripper)の話を読んだことがある人は当時の雰囲気がつかめるのではと思います。

第二次世界大戦後、ユダヤ人たちはロンドンの北部に多く住むようになり、この地域には徐々にバングラデッシュ移民が住むようになりました(戦前でもバングラデッシュ人の若い船乗りたちの小さなコミュニティは存在していたようですが)。

さらに1960年ごろからバングラデッシュからの移民の数が増えはじめ、1971年のバングラデッシュ(かつての東パキスタン)独立戦争後にはさらに難民・移民として移り住む家族が急激に増えました。私の学校の生徒たちはほとんどが二世・三世。彼らの子供・孫の世代にあたるわけです。

今日の東ロンドンは活気にあふれています。ここ数年、SpitalfieldsやAldgate East周辺もだいぶ変わりました。Shorditchというエリアにいたっては若者に非常に人気のあるおしゃれなエリアになりつつあります。

かつてユーグノーやユダヤ人たちが住んでいた荒れ果てた多くの建物は内部が改装され高級なフラットに様変わりし、おしゃれなレストランやカフェが増えました。駅周辺もオリンピックが2012年に来ることもあり、再開発が急ピッチで進んでいます。

古いものがある。古いものが見直され、形を変えてまた蘇る。そして、新しいものが生まれる-今、変化の真っ只中にある東ロンドンは他の地域と比べても本当に面白い地域なのです。

皆さんも機会があったら訪れて欲しいと思います。そして、時間をかけて東ロンドンの過去と現在を堪能して欲しいと思います(下記のサイトが参考になります)。

http://exploringeastlondon.co.uk/Spitalfields/Spitalfields.htm

投稿者 lib : 09:40 AM | コメント (0)

July 09, 2008

イギリスのバブル その4

career2.gif
(前々回の「イギリスのバブル その3」から続く)

新聞記事ひとつにしても、人間のサガというものを思い知らされることがある。

「女の子は若くてきれいでなくては値打ちがありません。仕事の能力? そんなことには期待してません」みたいなことをおじさんが言うらしい。 (ありがたいことに私の目の前で言った人はいない。なぜかというと・・・なぜだろう?)

で、内心は (ま、男の場合は違うけどね。男は仕事で決まる。顔や若さは関係ないもんね。どんな権力を握るか、どれだけ稼ぐか、がポイントさ)なんて思っているのだろう。

しかし、今回のC氏の記事で目からウロコが落ちた。

なーんだ、結局、ビジネスマンの男も 「顔と若さ」が重要じゃん、という事実である。

「自分のビジネスを設立するために160ミリオンポンドのボーナスを蹴って退職」というネタだけにしては、顔写真が大きすぎる。しかも、私服で歩いているところをパパラッチされた感じだし。

「セレブ・ヘアドレッサーによるスタイル」 だの、「住んでいるのはリラックスしたXXX」だのと同じ無料新聞でも 「ロンドンペーパー」か 「ライト」の芸能人ゴシップ欄のようなノリだ。

「鶏ガラのような爺さん会長」 「脂ぎったオヤジ社長」 「若い凄腕経営者、顔に難ありなのが残念」なんてビジネスマンとは違う。この人たちだと25ビリオンポンドなんてビジネスディールでも、証明写真程度の大きさしか顔が出ない扱いだ。

C氏は数週間後にも新聞に登場した。
彼の辞職によってXXXファンドから投資家が逃げ出し、株価が落ちているという記事だ。 で 「彼は130ミリオンポンドのボーナスを蹴って・・・」とある。

あれ? 160ミリオンじゃなかったっけ?

よく読んでみるとこのボーナスは会社の株でもらえる予定だったとか。だから株価が下がった今、その額も減ったのだろうか。30ミリオンの違いってすごいよね。 本人は蹴ったくらいだから気にしないだろうけど。

「おいしかったね。お勘定は割り勘にしようね。いくら? 30ポンドくらいかな? え? 60ポンド? マネージャーを呼べ!」
なんて30ポンドくらいで頭に血が上る私たちとは別世界の人だ。

私の周りにも自社株が目減りして、がっかりしている人は多い。もちろん、30ミリオンポンドも下がったという友人はいませんが。

さて、ここで謎々です。

「株価が下がってニコニコするのは誰でしょう?」 また 「人員整理の時期にニコニコするのは誰でしょう?」 はたまた 「家庭不和で離婚が増えてニコニコ・・・(以下省略)」

答えは 「弁護士」

イギリスのバブル期に 「ゴールドディガー」こと、 「これっぽっちも道徳心なし、バリバリに金目当て、必殺必中、玉の輿めざし女」の手中に落ちた男たちは、もうすぐ 「金の切れ目が縁の切れ目」という透かし文字が浮き出た便箋を弁護士事務所から受け取ることになる。

利益の追求に純粋なゴールドディガーは、シティ勤めの夫の資産が目減りする前にと弁護士事務所に駆け込んでいるとか。下手なファンドマネージャーより相場の動きには敏感だったりするし。

離婚の理由は 「性格の不一致」 とかになっているんでしょうねえ。まさか 「エマージング・マーケットの株価下落に加え、プライベート・プレースメントの収益減収とプロパティのポートフォリオ悪化のため」 なんて家庭裁判所に提出できないって。

クレジット・クランチでもゴールドディガーは元気いっぱいです。

投稿者 lib : 11:22 PM | コメント (0)

5歳児に、「日本」について語る その1

mama.gif

息子が学校から1枚のレターを持って帰ってきた。

普段の印刷されたレターと違って、表に私の名前が手書きで書いてある。
なんだろう?と思って開くと、中も手書きだった。

「今週、我が校では『日本』について学んでいます。そこで、お時間があったら学校に来て、子供達に日本について話をしてもらえませんか?短い時間で結構です、30分以下で。」

というような内容だった。

息子の学校では毎週テーマを決めて、それに沿って学年毎に学んでいるらしい。
それで今週は『日本』がテーマなのだとか。

ふ~む。
5歳児に「日本について話す」か…。
テーマが広すぎて、何を話していいのやら。
どっちにしろ30分なんて話せん。子供の集中力も私の記憶力も持たない。
それより何より、私でいいのか。
在英10年を迎えて、私の中にチャイニーズ文化とイギリス文化が入り混じり、「エセ日本人」的になってきているぞ。
その割りに、英語は相変わらず上達しない。私のバリバリのジャパニーズ・アクセントを5歳児が理解してくれるだろうか。

などとレターを手に考え込んでいると、夫が帰ってきた。
事情を話すと
「それはぜひ引き受けるべきだ。普段、お世話になっている学校に協力しなくては」
と言う。
私は普段から積極的に学校行事などに参加するタイプでもないし(多分日本にいても、そうだったと思う)、ご指名で頼まれた時くらいは協力するべきだろう、とは確かに思う。
それに、日本の事について学んでくれている、というのも嬉しかったりもする。
そうよねー、断る理由もないし…と背中を押された気持ちになり、引き受けることにした。

翌朝、学校に息子を連れて行ったついでに先生に了解の旨を話すと、彼女(手紙をくれた先生とは別の先生)は
「ありがとう。簡単な事でいいのよ。数の数え方とか…15分位でいいのよ。」
と言ってくれた。
一晩で30分が15分に短縮された。これはいい感じだ。

約束した日は2日後だ。
さて何を話そうかな。
やっぱり話を聞いているだけじゃ飽きるよな。
参加型ということで「折り紙」を折らせるとか…と一瞬思ったが、考えてみれば我が息子でさえ、折り紙なんて折ったことがない。
前に教えようとしたことがあったような気もするが、全く興味を持たれなかった。
泥沼化しそうなので、これは却下。

ステレオタイプの日本像(着物とか、寿司とか)を見せて話をしてもいいが、何かもっと、今の「ありのままの日本」を知ってほしいな。
だからと言って、秋葉原のメイド喫茶の写真を見せるわけにもいかん。先生をドン引きさせてどうする。


…やっぱり日本の誇る世界のアイドル、ポケモンかな…。

うちの息子を見ていればわかるが、15分も座らされ、未知の文化を押し付けがましく語られても、5歳児には苦痛なだけだ。
子供にも馴染みの深い「日本のもの」から入ってもらおうと思い、イギリスでも人気のあるポケモンの絵を見せて、興味を引く作戦にした。

インターネットで適当なピカチューの絵を見つけ、A4の紙にプリントアウト。
ピカチューだけでは寂しいので、やはり男の子に人気の「パワーレンジャー」、女の子受けするキャラも欲しいな、ということで「キティちゃん」も見つけダウンロード&印刷。(なんだかんだ言って私、やる気満々?)

ふっふっふ。これで子供達のハートはがっちり頂きだわ…。
(先生の意図するところから離れていっているような気もするが、トークの結果は次回で)

つづく


投稿者 lib : 04:01 PM | コメント (1)

July 08, 2008

猫騒動のその後 (coco)

darling.gif
我が家に迷い猫が来てから、早1ヶ月が経つ。
いまだに訊ね猫のポスターや情報がない。ということで、我が家にいる。
友人の助言により、ダーリンが注射を受けに獣医へ連れて行った。
我が家のミンミンは、産まれて始めての注射にショックを受けたらしく、帰宅しても静かで、小さな箱に隠れてしまった。
いつもなら、甘えて甘えて大変なのに静かな夜だった。そのうえ、ダーリンを恨んでか、無視のしっぱなしだった。ちょっと可哀想なダーリン。
しかし、翌朝になるといつもの暴れん坊将軍になっていた。少しホッ。
医者の話だと生後3ヶ月。そして、検診カードなるものをもらい、そこに猫の名前と生年月日と体重が書かれていた。プッ。結構笑える。生意気に一人前です。

猫がおならをするのには、ビックリした。
それも音無しだから、結構臭い!!犬を飼う友人に話したら、彼女の犬もおならをする。先日は、エレベーターの中で一発気持ちよくしたらしい。その後、運が悪く人が乗って来た。そして、その臭いに一瞬顔をしかめたらしい。彼女は、この臭いは犬がやったんです!と言いたかったが、なんだか犬のせいにしたと思われるのも口惜しいので、やめたとか。
犬は、一緒に歩けるのがいい。彼女、犬に運動をさせようと一緒に数時間歩いたらしい。帰って来て気づいたら、犬の足のつめから血がでていたそうだ。どうもアスファルトの上を長く歩きすぎたらしい。犬はけなげにも痛くなった足について、飼い主に泣き言を言わなかったそうだ。すごーい。
こんな行動は、猫にはないだろう。

朝のトイレ、シャワーと常につきまとい私のプライバシーは、まったくない。一心同体だ。朝も相手をしすぎて会社に遅れてしまいそうになる。みんなごめん!!
そんなもんだから、会社から家に帰るなり「ミンミン、ただいま。」何て言ってしまう。ダーリンは「ただいま、ダーリンでしょう!!」とご機嫌斜めだ。いけない。猫が原因で離婚になりかねない。
しかし、私は知っています。ダーリンも結構、猫を可愛がっているのです。
もし、始めの飼い主が見つかったらどうする?という話になると、ダーリンは返したくないようだ。すでにミンミンはダーリンのgood companyなのだ。

そろそろ2回目の注射を受けて、ついに公園デビューならず庭デビューです。我が家の庭は、他の家の猫のたまり場。先日は、ミンミンの4倍はあるニャジャラなる猫をみた。こんな猫と戦っていけるのだろうか?ああ、怪我をして泣く日も間近。それも仕方がないのでしょう。
外に出る前に1つだけミンミンに言い聞かせています。ご主人に褒められてもらうために、半殺しの鳥、ネズミを私に見せなくてもいいからね。と。ああ、猫馬鹿でした。

投稿者 lib : 11:31 PM | コメント (0)

July 07, 2008

No.2

shacho.gif

東京の友人が Jake Shimabukuro というウクレレ奏者のCDをお土産
に持ってきてくれた。アルバム・タイトルと一曲目はThe Beatles の
In my life 。無難。ふーんと思って2曲目を追ったら Going To
California とあるではないか。えっ、と思って早速聴いてみたら、
本当にZeppelinだった。Zepを選ぶというだけで僕はこのミュージシャ
ンを一気に評価した。全曲聴いて、本当はZepを1曲目に選びたかっ
たのではないだろうかと思った。

不精なせいか保守的なせいかは知らぬが、一度好みのアルバムに出会
うと、1年程同じものを延々と聞き続くことになる。Jakeさんには暫
くお世話になりそうだ。

日曜日にはこの友人をテニスに誘い、暫くぶりに一緒にプレーした。
サーブ練習が終わって玉を集めながら彼曰く、吉田さん、玉が重くな
りましたねえ。あら、そうかなア、てれるゼ、などとひとりごちてい
たら、そうなの雨で玉がぬれちゃったア、とコーチ。本当にこのコー
チは素敵な人だ。

そして午後はビール・ワインを片手に、コーチもミニも皆でウィンブ
ルドンのファイナルTV観戦である。これをしないと一年が終わらな
い。

ジャスティンの突然の引退があって、僕にとっての今年の女子トーナ
メントは精彩を欠いた。男子はご覧になった方も多いと思うが壮絶な
ファイナルだった。なんとしてもボルグをぬいて6連覇したかっただ
ろうと思うし、僕もそうしてほしかった。世代は変わらねばならぬ、
わかっている。しかし、一回だけ待ってほしかったなア。

フェデラーのテニスは基本形の究極であり、基本形がいかに強く美し
いものかを証明し続けてきた。プロのアスリートというのは、素人が
観たいシーンを提供することがその仕事の本質であろう。フェデラー
には、その仕事にやりがいを感じ続けてほしい。急に引退することは
考えないで欲しい。ランクなどはもうどうでもよい。No.2に落ちたら、
新No.1にとって、これほど嫌なNo.2はいないであろう。そんなあたり
が素人にはとても観たいところなのである。基本の美を永く提供し続
けてほしい。

投稿者 lib : 07:00 PM | コメント (0)

July 05, 2008

ハイテクたんけんぼくのまち

teacher.gif
今週の火曜日は勤務校でCitizenship Afternoonと称するイベントがありました。

イギリスでは国そして国を越えて地球社会の一員としての自覚を高めよう、政治・健康・環境などに関連した知識やスキルを身につけようという趣旨でおこなわれているCitizenship教育。

うちの学校でもTheme Day(今年は半日でしたが)のひとつとしてGlobal musicやPainting Environmental Bags、Global cookingなどCitizenshipに関連したワークショップ、校外学習(博物館見学なども含む)を含む数あるオプションから生徒自身が興味のあるものを選び参加する特別なイベントを去年から年に一回おこなっているのです。

私はここ数ヶ月、Local History(地域の歴史)に関連した7年生10数名が参加しているプロジェクトに関わっているのですが、今回もCitizenship Afternoonに合わせてそのプロジェクトのリーダーである同僚Jが計画したA Global Boroughという地域の歴史を学ぶツアーに参加することにしました。

このツアーは、イギリスの観光局公認の資格を持っているガイドさんと一緒に東ロンドンのAldgate EastやSpitalfields周辺を歩いて、そこに残っている古い建造物を訪ねながら東ロンドンの歴史を学び、東ロンドンを再発見しようというものです。

私の学校の生徒はほとんどがバングラデッシュ系のイギリス人。生まれや育ちも東ロンドン、特にBow, Stepney,Mile Endといったエリアなのです。でも、彼女らは自分たちの住む地域がどういう変遷を遂げてきたのかをほとんど知りません。彼女たちが生まれたときからすでにこの地域は人口のほとんどがアジア人というコミュニティですから。

今まで4年もこの学校で教えてきた私も地域の歴史に目を向けることが少なかったので、今回このツアーに参加して生徒とともに本当にたくさんのことを学びました。

あっ、次回のブログではぜひ私が今回学んだ東ロンドンの歴史について書きたいと思います。みなさんもきっと東ロンドンを今までとは違った感覚で見れるようになるのではないかと思います。

ちなみに今回のツアーで特別だったこと。企画者の同僚JはICT(日本でいうと情報処理という教科でしょうか)の教師で、私たちのために今回のツアーに学校が所有するHandheld PC(手のひらサイズの小さなコンピューター端末機)を持ってきてくれました。

生徒や教師の私たち一人ひとりに手渡されたPC。これを使って地図を見たり、GPSで現在地を確認したりできます。さらには内蔵されているソフトを使ってメモを取ったり、これまた内臓のカメラで写真を撮ったりとなかなかハイテク。私が中学生の頃はコンパクトでハイテクなモノといえばポケットベルやCDウオークマンくらいだったのに、、、。

さすが多機能な携帯やPCを使い慣れている現代っ子の私の生徒たち、短時間で見事Handheld PCを使いこないしていました。

技術的にも内容的にも、まさに「Eye-opening」な午後でした。

投稿者 lib : 10:41 PM | コメント (0)

July 03, 2008

オペラ座の夜

career2.gif
久しぶりにオペラに出かけた。

まずその前に、夏の恒例行事、ロイヤル・アカデミーでのサマーエクスビションに寄る。
今年はトレイシー・エミンが出展していて、一日キュレーターなんかもしたらしい。

いいなあ、トレイシー・エミン。顔がピカソしてるとこも好きだ。(すごい失礼)

さて、ずいぶんオペラに行っていなかった。というのも、オペラ友達の一人はド田舎に引っ越してしまい、もうひとりはボーイフレンドができて、私を誘う代わりに彼と出かけるようになったからである。

彼女は 「コベントガーデン 友の会」のメンバーで、シーズンが始まる前に演目のご案内があり、一般客よりも前に予約が取れるという特典を持っている。めぼしいのを選んで私に声をかけてくれていたのだが、最近は彼をお供にしていている。

ま、結構なことである。友達としては喜んであげたい。ただし、彼はあまり嬉しそうではないらしい。長いしね、オペラ。

今回のプリ・シアター・ミールはなんとカレー屋だ。今までもよく、安中華、安イタめし等を食べてから出かけていったが、10ポンドというセットメニューであった。
後で大変なことになるとも知らずに・・・。

久しぶりのロイヤル・オペラ・ハウス。もちろん上の方の安い席だ。
このあたりの席でも37ポンド。なんだか値上がりしてるなあ。原油価格のせいかしらん。

見回すとゲイのカップルがものすごく多い。
女の二人連れは 「ただの友達」という感じだが、男の二人連れは 「いかにも」のカップルだ。
幕が開くまで 「どちらが男役で、どちらが女役か。また、そう思った理由を述べよ」というゲームをして過ごした。

裕福そうなおじさんとサロンのマダムのような奥方が隣に座った。
「この人たち、常連さんよ。よく見かけるもん」と友達。

奥方はとても素人さんには見えない格好である。凝った雰囲気のドレス、どでかい指輪はパコンと蓋が開くような造りで、かのメディチ家秘伝の毒薬が仕込んであるような感じ。鉱山から掘り出したばかりの原石のようなネックレスは総重量が3キロはありそう。極めつけは直径7センチばかりの 「額飾り」

「額飾り」なんか着けて外を出歩いている人、生まれて初めて見た。

肩の凝り、指の凝り、額の凝り、が心配になるような着飾り方である。

「画廊の女主人」「宝石デザイナー」「ダンススクールの経営者」といった芸術方面のお仕事と見受けられる。 「税理士」「パン屋」「なまず養殖業」といった雰囲気ではない。

「ドン・カルロ」が始まった。スペインの王子と父王の後妻となった女の悲劇・・・に集中できない。というのも、脳天を打つような強烈な香水が漂うせいだ。その元は隣のマダム。なんだかデパートの化粧品売り場で深呼吸をしているような気分。

・・・が、そういう私もカレー屋経由でオペラハウスに来た身。
(隣の東洋人の女、滅茶苦茶、カレー臭いしー)とマダムも思っているかもしれない。

香水 vs カレー。 迷惑度としては同等か?

さて、3幕目のこと。胃が鳴った。
しかも、 「クー、グルルー、キュルルルー」という、いかにも 「胃が鳴ってます」という音なら良かったのだが、カレーのせいか、
「バフッ、ボッスーン、パスー」といった、まるで XXX のような音だ。

隣の香水マダムが身を硬くするのがわかった。まずい。もしかして、私が XXX をしたと思っているのでは?
(この東洋人の女。カレー臭いだけでは飽き足らず、XXX まで・・・)

違う、違うのよ! 私は XXX なんかしていません! 舞台の上のソプラノのように叫びたい気分だった。が、誤解を解こうにもオペラ中に私語は禁止。

濡れ衣を晴らせぬわが身の不幸に嘆き悲しむ、オペラ座の夜であった。無念。

投稿者 lib : 12:34 PM | コメント (0)

July 02, 2008

スポーツジム その2

mama.gif

以前から、たまにプールや、ピラーテスのクラスに単発では行っていたが、今回は友人が「効果てきめん」と言っていたエアロビクスのクラスに参加するのが第一の目的だった。
しかしエアロビの時間になかなか都合がつかなかったので、代わりに「Step(台)を使ったエアロビクス」とパンフレットに書いてあった、Stepというクラスに参加してみた。

インストラクターはドレッドヘアの黒人の兄ちゃんだ。
クラスが始まるやいなや、私のところに来て
「このクラスに参加するの初めて?」
と聞いてきた。
そうだと答えると、
「これは中級クラスだから…きついかもしれないけど、まあ様子を見ながらやろう」
と言われた。

しかしこれはなかなか楽しい。
ポップでファンキーな(もう少しましな表現はできないのか)音楽にのって、レゲエ兄ちゃんの動きを真似していると、10分過ぎた頃には汗がどっと噴き出してきた。
私は普段、あまり汗をかかない方だが、1時間のクラスが終わる頃には汗だく&すごい爽快感。
その日は一日中、体が軽くなったような気がした。

こんないいもん、なんで今までやらなかったんやろー。
(日本でもイギリスでも、スポーツクラブのメンバーになっていたことはあったが、当時は仕事をしていたこともあって時間に制約されるエクササイズクラスには殆ど参加しなかった。
それも週に一度泳ぎに行けばいい方で、しかも水泳よりジャグジーに漬かっている時間が長く、スポーツジムというより健康ランド状態だった。最後の方は月一回ペースになって退会、というお決まりのパターンだった)

この他に、ダンベルやバーベルを使うクラス(これはStepほど楽しくはないけど、わき腹や足の肉をとるのにはよさそうだ)や、プールで、週3~4日はスポーツクラブ通いをした。

これくらいのペースで運動をすると、運動しない日があると気持ちが悪くなってくる。
よく中毒のようにジムに通い詰める人がいるが、気持ちが少し分かるような気がした。
先週は夫が午後から仕事すれば良い日があったので、午前中テニス、午後は水泳のダブルセットなど、それまでの運動不足人生40年を覆すような日々となった。

で、3週間過ぎた。
体重はあまり変わっていないが、ぷるんぷるんの二の腕や、たるんでいた腹も、すこしは引き締まったような気がする(当社比)
貧乳、ずん胴の二重苦だったボディにも、ほのかに「くびれ」の様なものが…。(当社比)
「せっかく運動したんだから」と暴飲暴食もしないようになった。(当社比)

年をとればお肌も水分不足になるし、皺もシミもできる。それについては自然には逆らえないと思っている。
でも、体重(体型?)だけは唯一、努力すれば自分で管理できる部分なので、なんとか林真須美にならないように頑張ろう…!

ミック・ジャガーはしわしわだけどあんなにカッコいいじゃないか。(黒木瞳をめざすんじゃなかったのかよ)

ちなみに、ダンベルを使うクラスに、息子のナーサリーでよく見かけたお母さんも来ている。
いつもいるので、殆ど毎日来ているのだろう。
話した事はなかったが、背がとっても高く(180cm近くありそう)、筋肉質で、目立つ人なので覚えていた。
しかも顔立ちがはっきりしていて化粧も濃いので、実は初めて見た時、一瞬、「ドラッグクイーン???」と思ってしまったことを告白しよう。
(それだけ贅肉がなくて、引き締まってるって事ですが…具体的に言うと、エイミー・ワインハウス系の顔に、アンジェリーナ・ジョリーをもっとムキムキにした感じのボディ。)
やはりそれなりの人は、隠れた努力をそれなりにしているのだなあ…とドラッグクイーン、いや(心の)ママ友を熱く見つめながら、たるんだ二の腕をぷるぷるさせつつバーベルを持ち上げる私であった。

ジム友もできたし(勝手にジム友にしているが)頑張って、会費の元をとるぞ~。
(実はこれが一番の原動力であるような気もする)


投稿者 lib : 04:09 PM | コメント (0)

おばあちゃんの葬儀で。<その2  Who knows? >

darling.gif
我々は、葬儀の前の日に到着した。
到着してすこしゆっくりした後に、「おばあさんの顔を見に行く?」と義理ママがダーリンに聞いた。
この意味は、遺体が葬儀屋にあり最後のお別れをしたい人はここで対面できるということだ。私は好奇心(ちょっと不謹慎かしら?)もあって、もちろん同行することにした。
アメリカのTV番組で、葬儀屋が舞台となる「6 feet under」でみた光景のように西洋風棺桶のふたがあき、遺体が横たわっている。顔だけがだされ、ベールがかけられている。身体は白い寝袋のようなものに包まれており、なんだか小さく見えた。ドラマの中では、棺桶がディスプレイされている部屋があったが、それは見当たらなかった。
おばあちゃんの顔は少しだけ化粧がされていて、寝ているようにも見えるが、やはり顔がこわばって怖い感じもあり少し不気味な印象。
葬儀屋から帰り、義理ママになんて言えばいいのだろうかと思った。ママのお母さんが亡くなったのだ。残念ね。では言葉が足りない。こんな時は、どういわれるのが、当事者は救われるのだろうか。
最初に口をついて出たのは、「おばあちゃんの顔に、化粧がされていたわね。」と切り出すと、ママは「本当ね。ねえ、奇麗な死に顔よね?95歳にはみえないくらい若いわよね?」と。そうか、そういってほしいのか。となんだかポイントが見えた。ホッ。

我々はリビングルームに座り、ママは奥の台所でお茶の用意をしていた。
リビングルームは、玄関の隣にあり大きな窓がある。何気に外を見たダーリンが、「あ、誰かきたよ。」と言った。私も窓をみると誰かが玄関に向かってやって来る影が見えたので、ママに「訪問者よ。」と伝えた。葬儀の前なので、近所の誰かがお悔やみを言いに来たのだろう。ママが玄関に行き、ドアを開けると誰もいないという。
「え?!だって確かに来たわよ」私も玄関まで行き、外を見たが確かに誰もいない。でも、確かに見た。「白い上着とズボンをはいた女性の老人だったわよ。」と私が言うと、みんなが一瞬黙った。
まさか、おばあちゃん??、ママは我々の勘違いでしょう、と言ったが、ダーリンは人の影を見たし、 私も人の身体の一部と影を見た。しかし、ママは自信を持ってこう言った。「だっておばあちゃんは、この家の場所を知らないわよ。だから間違いよ。」と相手にしてくれない。でも、私もダーリンももしかしたら??おばあちゃん?なんて思ってしまった。不思議な現象だが、恐さは感じなかった。

実は、私の父が亡くなった時も変な現象があった。葬儀のため、嫁いだ妹も戻り、家族が集まって寝ていると、ママが明け方に眠りながら声を高らかにして笑いだした。私と妹は起き上がり、ママがショックでおかしくなったのかと恐れたが、後でママに聞くと、夢の中で、自分の父親と父の父が来て、「連れて行くからね。」と言って、3つの火の玉が天に登っていたそうだ。
それを見て、喜んでいる自分がいたそうだ。

超自然現象か、はたまた思い違いなのか、Who knows? ってことでしょうかね??

投稿者 lib : 12:07 AM | コメント (0)