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February 28, 2008
Behaviour for Learning
前回、Student Voiceというタイトルで私の勤務校でおこなわれている取り組みについて書きました。
ここで中心となるのは「Children-centred」という考え方です。学校の主体はあくまで子供たち。教師はあくまでも子供たちの学びを手助けするfacilitator (促進者・うながす人)なわけです。今、学校側は子供がどのようなことを学校に期待しているのか、彼ら自身どういう学びの方法が効果的だと考えているのか、理想的な学習環境はなにか、などを知ろうと必死です。何しろこれから学校のカリキュラム・方向性を変えるにあたって、子供の声を無視するわけにはいかないのですから。
この子供の声を聞こうという試みの一環で私の勤務校ではついこの間、校長や管理職クラスの教員たち自らが9年生のいくつかのクラスで「Behaviour for learning(学ぶための態度)」という授業をおこないました。Behaviour for learningというコンセプトは前回のブログで書いた「Learning to learn」と密接に関連、または重なる部分の多いもので、要は子供のLearning experienceをより効果的にするためには「学ぶための正しい姿勢・態度」を意識させ、身につけさせることが大切という考えです。
この間、たまたま校長のおこなったこのBehaviour for learningの授業を見学したのですが、そこではまず「学ぶために必要な教室でのルールは何か?」をグループで話し合わせていました。「先生と他の生徒の意見を敬意を持って聞く」「先生が話しているときは静かに聞く」「校則に違反するもの(携帯など)を持ち込まない」など、色々な意見が出ていました。これを読んでいられる方の中には「なにもこんな当たり前なことをルールとしてあげなくても、、、」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私の勤務校では普段、黙って座っていられない、話を聞けない生徒がたくさんいるのです。
そして、次に校長が生徒に話し合わせたのは「自分が頑張ったときにどのようなRewards(ほうび)が欲しいか?」というものでした。私が中学・高校にいた頃は、授業中に特に褒められて何かをもらったという記憶がありません。もちろん、何かで賞を取ったときには賞状と景品をもらいましたが。イギリスの学校ではこのrewardとsanction(処罰)のルールが学校ごとにあります。そして、これをいかに効率よく使うかがBehaviour managementの鍵だとされています。よく出来た子には褒美を、悪いことをしたら仕置きをというものです。授業中のRewardでさかんなのは、Merit stickerなるシール(一定の数を集めると賞状、景品がもらえる)をあげること、Sanctionで一番使われるのが「居残り」でしょうか。
ただ、教師によってはこのような紙切れ一枚のRewardでは現代の子供たちの学習意欲は高まらないと言います。極端な例を言えば、GCSE(11年生の受ける試験)の成績を上げるために、褒賞として現金をあげるくらいすればいいと豪語する同僚もいました。実際におこなった学校があると聞いたときはさらに驚きましたが。「いい成績さえ取れば金がもらえる」、、、そんな考えを学校が子供に植え付けるべきではないと私は思うのですが。営利主義が学校教育にも入り込んだら世も末だと感じるのは私だけではないと思います。
これだけ携帯やらMP3プレーヤーやら高価な物のあふれた社会の中で生きている子供がmerit stickerや賞状を貰うことを馬鹿らしいと思うか、それとも誇らしいと思うか。私はこれは教師や親、大人たちがどれだけこのシステムも意味のあるものだと真剣に信じ、子供たちに見せるかにもかかっていると思います。9年生くらいになると私のクラスでも「シールなんていらない、子供っぽい。集めるのは馬鹿らしい」と拒否する生徒がいますが、それでも「私があなたの頑張りを認識して、それを形で示したいからあげたいんだ」と真剣に言えば、まんざらでもない顔で受け取るのです。
私はやんちゃな子ほどこの「ごほうび」が好きな子が多いと思っています。昨日普段は結構騒いだり生意気なことを言ったりする生徒で、テストの結果が良かった子がいたのですが、その生徒にPraise postcard(賞賛の言葉を書いた絵葉書)を保護者宛てに送るから住所を書くように言ったら、うれしそうに黙って書いたのです。そんな姿を見ると、教師として嬉しくなりますし、こういうコミュニケーションの大切さを実感します。こういうポジティブなやりとりの積み重ねが生徒の今後の態度にも影響するのです。
さて、話は元に戻りますが、校長の授業を受けた9年生のクラスの子供たちは「貰いたいご褒美」についてどんな意見を持っていたのでしょうか。結果は様々でした。無難にシールや賞状を上げる子もいれば、遊園地やアイススケートなど遠足に連れて行ってもらいたいという子も。授業中に音楽をかけて欲しいという意見もありました。これはすでに実行している教師が結構いますが。また、懸念していたとおり、「現金」という子もいれば、MP3プレーヤーが欲しい、どこどこのお店の商品券が欲しいという子も。
こんな珍回答もありました。「Sleeping time (眠る時間)」・「Day off (一日休み)」。これはこの間の教員会議でも紹介されたのですが、これには一同大笑い。もちろんこんなことを学校側が実現させるわけには行かないのですが、現代っ子たちの発想とこの正直さには脱帽です。
そして、「こんなに頑張っている教員たちへのご褒美に一日休暇はないの?」と冗談好きの私の同僚たちの間で声が上がったのは言うまでもありません。
催眠療法 その1
人を呪わば、穴ふたつ。デブを笑わば・・・。というわけで、日頃、イギリス女のデブぶりをあざ笑っている私だが、その悪口がわが身にはね返ってきている。
「サイズ10のスカートを履くくらいなら、死んだほうがマシ」と言い切ってきたが、つい誘惑に負けて手を出してしまった。もっとも、 「死んだほうがマシ」ってのを見せてもらいましょうかね、と迫られたら困るので、周囲にバレないように、固く口を閉ざしているが。
ふりかえれば、2ヶ月前、クリスマスの頃だ。
イギリス人の男、数人と食事をしていた。
「なんだか太っちゃって。ダイエットしなきゃいけないのよね。あ、アタシ、デザートはチーズケーキをお願いね」
と、いつもの 「言行不一致の美学」を披露していると、その中のひとりが、
「君はいつも体重を気にしてるから、これ、買ってきたんだ。クリスマスプレゼントだよ」と本をくれた。
見れば、
Paul McKenna著 「I Can Make You THIN」という本だ。
「私はあなたを痩せさせることができる!」というタイトル。
正直なところ、 (うっ・・・)と思わなかったと言えば、嘘になる。
この本をくれたのは、 (ゲイじゃないのか?)と疑うほど、女心を理解している男で、まったく悪気はなかったはずだ。
そのとき、他の男3人は心なしか青ざめていた。
(お前、何てことを・・・。女性に向かってダイエット本を薦めるなんて、 「デブをなんとかしろよ」って言ってるのと同じだろ。殺されるぞ、殺される)
デブを指摘された私がヒステリーを起こして彼に飛びかかり、腹わたを食いちぎる光景が脳裏によぎったに違いない。
「痩せなくっちゃ」
「いや、全然太ってないよ」
と、イギリス紳士なら当然のお約束の会話がついに破られたのだ。
が、瞬間のショックを自制すると、好奇心がわいてきた。
「流行のダイエットなの?」
「いいや、この人は催眠術で有名なんだ。いろいろとシリーズがあってね。ダイエット、自信をつける、禁煙とかね。僕も彼のおかげで禁煙できたんだ」
彼の話によると、本を読む必要はない。CDが付いているので、それをリラックスした気分で聞くようにということである。そのCDも、「しっかり注意を払って聴く」のではなく、 「聞き流す」ほうがいいらしい。
ほー、ほー、なるほどね、とありがたく貰って帰った。
しかし、いくつか問題がある。
いまどきの女なら、ダイエットのメソードの5つや6つは空でスラスラ述べることができる。が、どうしたら実行できるか、を知っている人は少ない。
ダイエットの知識は増えるが、体重も増えるという 「ダイエット理論-正比例の法則」があるのだ。これ以上、新しいダイエット法を聞いても・・・。
それに私は人の命令を聞くのが嫌いだ。 「やれ」 と命令されると、反発してしまう。
日本では軍隊式のダイエットが流行っていたらしいが、私には不向き。
ああ、職業軍人でなくて本当によかった。上官の命令にことごとく逆らって、指令系統をメチャメチャにし、部隊ごと全滅させてしまうタイプだと思う。
それに、催眠術って、なんだか、怖くない? 目が覚めなくなったりして。
というわけで、しばらく家に放っておいた。が、気のいい友人は、
「あのCD聴いてみた? 試してみた?」
と顔を合わせるたびに訊ねる。
しかたなく、私も腹をくくってやってみることにした。
せっかくの友情にヒビを入れたくない。たとえ、目が覚めなくなったって、それがどうしたというのだ? (すごく、困るけど・・・)
まあ、普通の書店で売っていて、おまけにベストセラーということだから、そんなに危ないものではない、はずだ。 [続く]
February 27, 2008
すみません。風邪のため1回お休みします。coco
February 25, 2008
アカデミー賞
この原稿を書いている2月25日は、第80回アカデミー賞の授賞式である。
さっきニュースで報道されていたので、ちらっと結果は知ったが、授賞式の模様そのものを私はTVで観ることはできない。
……なぜなら、衛星放送のスカイだけで放送して、BBC1などの地上波では放送されないから。
夫が不満そうに言う。
「オスカーだよ?オスカー。TVライセンス(イギリスの受信料のようなもの)に年100ポンド以上払っているのにオスカーも放送しないなんて、BBCは全く使えないよな。」
以前は我が家もスカイと契約していたが、大して見る番組もないので、数年前に止めてしまった。
「BBC、高すぎて番組の放映権を買えなかったのかな。」
「ニュースキャスターに年間、何百万ポンド(数億円)も払っているからオスカーも買えなくなるんだ。それでとばっちりを受けるのは、いつでも我ら庶民だ。年100ポンドも払っているのにオスカーも観る権利がないなんて……この国に、平等な富の配分はないのか……」
ニュースキャスターの年棒、数百万ポンドに触れた直後に受信料100ポンドをいつまでも根に持つのもせこい気がしたが、確かに夫の言い分にも一理ある。
「それか、スカイが放映独占権を買ったとか。ほら、買い占めるの好きだから」
「またマードックか……。新聞の「タイムズ」も、あいつの傘下に入ってから質が落ちた。」
などとアカデミー賞を観る事ができない憤りを、腹立ち紛れに富の配分やマードックのせいにして気を晴らしていると、息子が話に入ってきた。
「オスカーって何?」
「え、えーっと、映画館に行って映画を観たことあるでしょ、どの映画が一番良かったか決めて、一番の映画にプライズをあげるんだよ」
「ベスト・フィルム?それなら『ウォーター・ホース』だね」
そういえば、ハーフターム中に通ったホリデー・クラブで映画に連れて行ってもらって、そんな映画を観たとか言っていたな。
「ウォーター・ホースは本当にいい映画だったよ…。モンスターの話なんだ、でも怖いモンスターじゃないよ。僕は、本当に本当に、ウォーターホースが世界で一番の映画だと思うね。」
オスカー選考委員も君の意見は聞いちゃいないであろうが、まあそんなに楽しかったのなら良かったね。
なぜか片肘をつきながら、熱っぽく語る息子であった。
「マミーはどの映画がベストだと思う?」
「え……最近映画なんて観てないからわからないよ」
「僕と一緒に映画館に行ったじゃないか。『ウォーター・ホース』は観られなかったけど、他の映画を観たじゃない」
確かにここ数年、映画館なんて息子の付き合いでしか行っていない。
「踊るペンギン」とか「料理をするネズミ」とか「人間の言葉を話す蜂」の映画は観たけどな…。
予告によると、これからも、空を飛ぶ「スーパー・ドッグ」とか「カンフー・パンダ」とか子供向け映画は容赦なく封切される予定らしい。(実話)
十二支を考えるだけでも、まだキャラクター化されていない動物が沢山いるので、身体的不利を乗り越え縄跳び選手権に挑戦する「スキッピン・スネーク」とか、エキセントリックな性格の「マッド・カウ」(主演は英国産の牛でぜひ)など、製作側はまだまだ素材には事欠かない事だろう。(予測) 恐ろしいことである。
ちなみに、「The Water Horse」はネス湖のモンスターの話で、ピク●ーやディ●ニーの作品ではないので、観てもいいかも、という気になった。息子の批評を信じる方はギャンブルのつもりでぜひ。
それにしても、先週はフットボール評論家だったと思ったら、今週は映画評論家気取りの息子である。
来週は何の評論をするのやら。
(私の料理の評論だけはしないでね。)
February 23, 2008
Work Permit
Work Permit(外国人労働許可)のシカケが変わるという。外国人(
日本人)への交付が難しくなると、当社は困る。すでに当社のニュー
ヨーク店はこのシンプルな’困る’と何年も格闘しているが、今でも
困っている。これがUKに来ると、とても困る。
難しくする理由は明白であろう。EUの描いた労働力自由化の理想像が
、実際には様々な問題を生み出した。これを調整・整理する為である
。やむを得ないだろうなと僕も同意する。
そして同意できないこともある。新しいWPのシカケが、相変わらずUK
に入国したい’個人’の資質や英語力等を審査の対象の大部分として
いるシカケである。その個人を雇う"企業"の資質や国への貢献度は殆ど
対象になっていない。どれだけUKの経済に貢献しているのか、大いに
審査の対象にすべきだと思う。
こういうあたりは昔のイギリス人達は大変賢かった。日本人も明治時
代には良い国際感覚を持っていた。はてはて、見物させていただこう。
Collision
Rokurakuというシカケを自宅にしかけた。日本のTV番組をインターネ
ット経由で予約、ダウンロードし、ロンドンで見ることがかなう。1
時間の番組が要するダウンロード時間は、約倍から3倍程度。世は実
に便利であり、そういう意味での便は毎日毎日進化している。
Rokurakuに恩恵を全面的に受けている同居人に付合って日本のニュー
スを眺めていたら、イージス艦と漁船が衝突したという報道があった。
僕がびっくりしたのは衝突ではない。翌日の日経の1面にこの記事が
とりあげられ、さらにそのコラムが海上自衛隊の側のみを誹謗してい
たことである。更に調べると、いくつかの他紙でも一面扱いであった。
福田総理に報告がいくまで2時間かかったことを非難するコラムも
あったようだ。
遭難した親子は実に気の毒である。しかし、僕には日経の1面に載る
ほどの事件とはとても思えないし、海上自衛隊が一方的に非難される
事故でもないだろうと思う。イージス艦は7千トン、コンパクト
ではあるが、実のある装備を備えた対空(主に)防衛艦である。沈没
した漁船は7トンであったらしい。
300人の乗組員を抱える7千トンのイージス艦が、いかようにして
7トンの漁船を衝突前に認識して回避できなかったに各紙の論点が集
中している。リスク回避制御が機能しなかったか、リスク回避計画の
どこかに問題があったのであろう。これは海上自衛隊が改善しなけら
ばならない。
しかし僕にもっと不可解なのは、7トンという小さな漁船が、いかよ
うにして、その1000倍の船体を持つイージス艦を少なくも10分間
は感ぜずに、まっしぐらに走って行き、かつ左通行を無視して、自己
を真っ二つに割るまで進んだことである。
誤解を招かないように再び言うが、遭難した親子の安否は分かってい
ないが、実に気の毒である。しかし、この事故で仮にイージス艦が核
をもっていたとしても、衝突相手は7トンの漁船であり、総理に3分以
内に届け出ることにどれだけ実があるのか、僕には分からない。
ワンダーランド日本のtyipicalなinstanceと思ったが、実は僕がワン
ダー日本人になってしまったということか。
February 21, 2008
Student Voice
この間、中高時代の恩師から今、日本の教育界でフィンランドの教育が注目されているということを耳にしました。フィンランドでは「子供の学びの力を育てよう」という教育理念に基づいて授業が実践されているそうです。
この間日本に一時帰国した際にもテレビで特集が組まれており、番組では日本のある小学校教師の実践が紹介されていました。彼女は「6年生」というテーマで生徒達にBrainstorming(日本語では「ひらめき」方法というようです)させるというものでした。黒板の真ん中に「6年生」と書かれ、そこから放射線状に生徒から出されたアイディアが書きこまれています。一つ一つのアイディアが線で結ばれ、違うアイディアどうしの関連がわかるようになっています。(英語ではspider-gramやconcept mapと呼ばれます) つまり、この授業では生徒達が「6年生」という言葉からどのようなこと(例えば、「卒業」など)を連想できるか、それを個別にどのように説明できるか、そして自分と自分以外の生徒の意見の相違点をどうやって見つけられるかが鍵なのです。
このように子供の「考える力」を主体にした授業はイギリスでは以前から実践されています。私の専門教科である歴史でも史資料を使いながら歴史的事件の要因を考えさせたり、奴隷制や原爆投下の是非を議論させたりなど(もちろん人道的に考えたら奴隷制や原爆投下を正当化する事はできませんが)、子ども自身の思考力・説明力が試される場面がたくさんあります。教師は絶対的な知識を授けるのではなく、あくまでも彼らの学びの手助け・導きをする存在なのです。
我が校も含めて、都市部の学校の一部では子供の向学意欲の低下が問題となっています。学校が権威を揮って強制的に子供を学ばせるということが難しくなっているのです。では、どうやって子供に学ぶ事を「意義のあること」「楽しい事」と思わせられるのか。最近ではこのような問題を解決するために、子供の「学びの力」を主体としたアプローチを教科の垣根を越えて実践しようという動きがあります。改革を上から一方的に行うのではなくて子供の声を取り入れながら進めていこう、そして、子ども自身に自分達の学びについて自覚・責任を持たせようという目的が根本にあります。それが達成された時に子供は主体的に意欲を持って学びはじめるという考えがあり、今、全国で様々な試みがなされているのです。
その中の一つに「Learning to learn(学ぶための学び)」というものがあります。子供が一方的に教えられるのではなく、自分の学ぶ物理的・心理的環境についての意識を高め、さらに自発的に学ぶために必要な力・技術そして姿勢を育むことが含まれます。例えば、子供の授業態度・マナーや他者とのコミュニケーション能力もより効果的な学びに必要な要素であると考えられています。
では、実際にこの「Learning to learn」がどのように我が校で実践されているのかというと、私の学校では「Student voice」といわれるプロジェクトがあります。このプロジェクトの一環で、生徒達を研究者として育てようと言うものがあります。選出された生徒たちは教育理論・教授法をある程度学び、Mentor(精神的支援者、・助言者)として訓練されます。そして次のステップとして実際に教師の授業観察などをし、教師にフィードバック(結果に含まれる情報を原因に反映することで、ある行為に対して応答する)するのです。彼らの意見をどれだけ反映すべきかは教員の中でも議論を呼ぶところですが、少なくとも生徒は自分の学びの場を教師の側から視点を変えてみることによって「学び」という行為を客観的に捉えられるのです。私も以前、授業を観察・フィードバックされる機会がありましたが、教師と生徒の相互理解を深めるにはいい取り組みだと感じました。でも、さすがに毎回だときついですね(笑)
さぁ、このStudent voiceの行き着く先はどこなのか、楽しみでもあり、不安でもあります。子供の意識改革・向上のためとはいえ、彼らにどこまで自分達の意見を言わせてよいものなのか、どこで線引きをすればいいのか、殆ど生徒に発言権のない学習環境で育ってきた私にはいささか疑問な点もありますが、その点については次回に書きますね。
February 20, 2008
八丈島に島流し その2
BTは月曜日、2日後に修理に来てくれるとのことである。
もちろん、信じてなどいなかった。 「月曜日に修理に来ます」と聞いて、約束した日に人が来るなんて思うのは、イギリス生活の素人さんである。
「月曜日って、7週目の月曜だったのね」みたいなことは当たり前。
「月曜日といっても、今年の月曜日とは言わなかったしー」くらいの言い訳を聞かされるのは覚悟しなければならない。
ま、とりあえず、修理は頼んだから、とテレビを見ていると、ピンポーンとドアベルが鳴った。
―――誰?
で、ドアを開けると、BTのエンジニアが立っている。
「BTです。電話線が切れたんだって?」
「あわわわわ・・・」とパジャマ姿の私。
―――目の前で起こっていることに対応できなくて、パニックっている。
「ちょうど、近くで修理してたら、連絡が入ったんだよね」
「あわ、あわわわわ」
「あんた、大丈夫?」
「あわ、あわ、あわ」
玄関のドアを開けたら、テクノザウルスが立っていて、丁寧におじきをしながら日本語で挨拶したくらい驚いた。
イギリスに何年も住んでみればわかる。BTに電話をして、30分後にエンジニアが来たら、たとえ 「あわわわわ」 でなくても、誰でも 「うきききき」 だの、 「むぐぐぐぐ」だのと、パニック反応を起こしてしまうだろう。
おまけにこのBTのおじさん、コメディアンのハリー・エンフィールドにそっくりだ。
きつねかなんかに、騙されているのかしらん、私?
「ちょっと、中に入っていい? 家の中に電話線のボックスがあるはずなんだ」
「え? あわわわわ」
この、 「あわわわわ」は別の意味である。
私は週日は働いている。1週間分のゴタゴタが堆積して最高潮に達している土曜日の朝、しかも、他人が来ることを予想していないときに、
「あ、はい。どーぞ」と家の中を見せることに躊躇しないでいられる女がいれば、尊敬するね。
で、私は尊敬に値しない女なので、
「あわわわわ」とあせったのである。
「えーっと、30秒だけ、待ってくれる?」
本当は30分くらいは欲しかったのだが、せっかく来てくれたBTのエンジニアを逃したくなかったので、30秒で家の中を整理した。
このハリーおじさんは、
「あ、しまった。前の工事の場所にはしごを忘れちゃった。はしご、ある? 貸してくれる?」などとボケをかましながらも、半時間ほどで電話線を修理してくれた。
お世話になったので、5ポンドくらいチップとしてあげようかと思ったが、意外とこの手の仕事は稼ぎがいい。私よりも、おじさんのほうが収入が多いかもしれない可能性を考え、買い置きのチョコレートの箱をお礼として進呈した。
「BTに電話したら、30分でエンジニアが来たよ」と言っても、誰も信じない。
「まーた、嘘ばっかり。そんなにすぐ、来るわけないじゃん。ここ、イギリスだよ」
月曜日、私の携帯電話にメッセージが入った。
「こちらはBTです。今日、エンジニアを修理に送る予定です。不自由をおかけして、申し訳ございません」
・・・BTの内部連絡の質って・・・・。
「八丈島に島流し」寸前に 「将軍の恩赦」を受けた気分である。もちろん、助けてくれたのは 「将軍様」ではなくて、 「ハリーおじさん」 だったが。
・・・ところで、BTに2ヶ月ほど前からブロードバンドを頼んでいるんですが、一体いつエンジニアが来るんですか?
英国のバレンタインと義理チョコ(coco)
英国のバレンタインは、男女どちらからでも愛を告白していい日。
まあ、多くはカップルが贈り物や食事をするイベント日となっている。
贈り物は花やチョコレートがポピュラーのようだ。
この日をすっかりビジネスにしようと、スーパーマーケットではピンクのシャンパン、赤いバラ、赤やピンクのパッケージに包まれたチョコなどの食品がつまれ、ある一面がピンクとなり、
誰でもがバレンタインを意識する。
当日の道端では、母の日のカーネーションのようにバラが高い値段で売られていたりもする。
それでもバレンタインの夜では、それらのバラの花が売り切れとなり、
みんなバレンタインで出費をしているようだ。
レストランは、特別バレンタインメニューが主流で(もちろん値段も特別)、何処も混んでいる。
ダーリンは、その昔はレストランに連れて行ってくれたが、 高いし、混んでいるという理由で、最近は家でちょっと腕をふるった料理を用意して過ごす事が多い。
ダーリンも釣った魚には餌を与えてくれないようで、ロマンよりも現実的になったということかな?
結婚生活が10年も過ぎると何処の家もこんなものかしら??
しかし、今年はダーリンの他にもバレンタインのカードとプレゼントをもらったのだ。ルンルン。
会社の向かいの事務所にいる23才のシャー君からだ。1985年生まれだ。キャっ、かなり年下だ。
英国生まれのパキスタン人で、欲目でみるとF1ドライバーのハミルトン君に似ている。
おっと、歳も同じだ。
彼とは、毎日顔を合わせる。
彼は大概が煙草ブレークでブラブラしていて、私はトイレに行くときに出会う。
会えばたわいのない会話だ。天気、会社の仕事等、時には、からかって、
「あ、また煙草?あなたはいった何時働いているのかしらねぇ?」と言ってやる。
バレンタインの数日前に、「今度のバレンタインには、君の会社のガールズにチョコレートをあげるからね。」と予告はあった。
当日、用事があり昼頃に会社につくと、「これもらいましたよ。」といって同僚が私に渡してくれたのは、
カードと小さなチョコレートが沢山入った何処にでも売っているチョコボックスだ。
あ、本当にくれたんだ。と思い、何気なくその箱の後ろを見ると値札が貼ってあった。
「2.99ポンド(約600円)」。うーん、まだまだ若い。
こんな感じだからシリアスなプレゼントではない事がわかるが、カードもあった。
カードには、
Dear Coco
You always make me laugh &smile-and my day seems to go faster when I see you,
With lots of lave ×××
Shelr
意味は、こんな感じかしら?
「親愛なるココ。
あなたはいつも私を笑わせてくれる。あなたに会う時は、私の一日が早く過ぎるようだ。
愛をこめて。シャー。」
慣れない人がこれを見たら、もしかしたら、ラブレター?ってウキウキしてしまうけど、
「With lots of lave ×××」。まあ、これは親や兄妹にも使う常套句。
「草々」みたいに習慣でつい、書いてしまうってやつです。
Loveの後の、××は、時に×◯×◯などとも書き、×はkiss、◯はhug(抱きしめる)と言う意味でこれも常套句。もともとは×は十字架と言う意味があり、誠実を意味したとか。(余談)
まあ、いい事が書いてあったので、さっそく向かいのドアをノックすると、昼時で食事中だ。
彼のボス(といっても30才ぐらい。この人がちょっといい男だ。)がドアを開けてくれて
「どうしたの?」と聞くので、「シャーがチョコレートをくれたのでお礼に来た。」と言うと
「どうも彼は、このビルの女の子、全員にチョコレートをあげていたみたいだよ。」と
ボスが笑いながら言った。
「なるほど、なかなか優しい人だね。」といい、
ランチを食べていたシャー君に向かって「ありがとうねー。」と言った。
数時間後、またいつものように煙草を吸って一服していたシャー君に会ったので、再度お礼をいい、
またいつもの癖でからかいたくなり
「そうそう、チョコレートの後ろに値札がついていたよ。知ってた?」と暴露してあげた。
「えーーー。しまった。でもカードの方が高かったんだよ。3.5ポンドもしたんだ。」と
若さ溢れる回答をしたシャー君。
爽やかな23才だ。こんな義理チョコならもらっても楽しいよね。
しかし、こうしてブログのネタにされてしまったことは、想像もしないだろうなー。
February 19, 2008
2008年のフットボール
夫も私もフットボールには全然興味がなく、試合中継も見ないし知識もない。
が、もう一人の住人が、最近なぜかフットボールにはまっている。
レセプションに通い始めて約半年、学校では他の2人の男の子といつも3人組で遊んでいるらしい。
この2人の親友、揃ってフットボールファンらしく息子もその受け売りで、家でもああだこうだとフットボールの話をするようになった。
とは言え、あくまでも友達の「受け売り」なので、ところどころに「認識の誤り」が生じる。
「マミー、マンチェスター・トゥナイテッドって知ってる?」
今夜、マンチェスターで?…… 何かあるのだろうか。
とりあえず細かい事は指摘せず
「マンチェスター・トゥナイテッドって強いの?」
と聞くと、
「うーん、マンチェスター・トゥナイテッドはToo Oldだね。」
としたり顔で言う。
「マンチェスター・トゥナイテッド」は人だと思っているらしい……。
かと思えば、
「スティーブン・ジェラードはいいチームだね。」
などと「評論」したりする。
フットボール選手といえば、ベッカムとルーニーくらいしか知らない私でも、「スティーブン・ジェラード」が人名であることくらいは分かる。どうやら「チーム」と「選手」の区別がついていないらしいが、それでも
「マミーはどのチームをサポートする?僕はイングランドをサポートする」
などと愛国心のあるところを見せたりもする。
「チーム」というのは、「アーセナル」とか「リバプール」とかの事なのではないのかな、と思い
「アーセナルは?」
と聞くと、
「アーセナル?rubbishだね。」
とこれまた生意気なコメント。
しかしその後、その頃にヨーロッパでの親善試合だか何だかが行われていたことを知り、この場合の「チーム」は息子の言う「国名」が正しかったことを知る。これは息子に一本とられた。
……どうでもいいが、低レベルのフットボール知識合戦だな。
せっかくなので
「ジャパンは?いいチーム?」
とご意見を伺って見る。
「ジャパン?Rubbish! Legs are too short!!」
と間髪入れず返答される。ガーン。
足が短いと言われても激しく否定できないところが悲しいが、
「に、日本だって最近は頑張っているんだよ、日本だって強くなってきてるんだよ…」
としどろもどろに反論するも、「足が短い」は明らかに友達2人の受け売りだろう。
その友達の意見も、彼らのお父さんの受け売りだろうから、
「一般的な英国人フットボールファンの日本人選手に関する見解」 = 「足が短くて、まるでダメ~」
と言う事が、図らずも分かってしまった。
ワールドカップの頃は、近所のイギリス人に
「日本、なかなかやるね」
とか言って貰ったが、やっぱり社交辞令だったのだな…。Too shortだもんね…。
とりあえず息子の話についていけるように、今まで全然興味のなかったフットボールの試合結果なども、ニュースで流れると注意して見るようになった。
来年の今頃には、フットボールライターとして記事を書いているかもしれない……筈ありません。
February 14, 2008
I’m a teacher, GET ME OUT OF HERE!
ちょっと不思議なタイトルで始めてみました。「俺は教師だ、ここから出してくれー!」とでも訳せばいいでしょうか。
これ、実はFrancis Gilbertという人の書いた本のタイトルなのです。イギリスに住んでいる人は気づいたかもしれませんが思いますが、このタイトル、「I’m a celebrity, get me out of here!」というリアリティTV番組のタイトルとかけています。このTV番組は、芸能人たちがジャングルのなかで様々な課題にチャレンジしながら生活する様子を番組にしたものです。かなり気持ち悪いチャレンジ(生きた虫を食べるとか)をさせられるので耐えられなくなる芸能人もいます。イギリスでは芸能人の意外な一面が見られるのでなかなか人気のある番組です。
さて、本題の「I’m a teacher, GET ME OUT OF HERE!」ですが、Francis Gilbertはこの本の中で、新任教師として働いたロンドンの都市部の学校(Inner-city school)での出来事を綴っています。国で1,2を争う問題校(英語ではOne of the worst schools in the countryと書いてあります)として名高かったというその学校での彼の体験談は衝撃的で、問題行動ばかりの生徒との関わりだけでなく、同僚たちとの関係の難しさなど、学校でおこる出来事を素直な視点から書いており非常に面白いです。彼は「問題校で教壇に立つということ」を「ジャングルで生き残らなくてはならないくらいの大変な状況」だと捉えてこういうタイトルにしたわけですね。
同じくInner-city schoolsで教育実習のときから教えてきた私には彼の体験には共感できる部分もたくさんあります。特に難しい生徒とのやりとり・対応など、似たようなことを目にすることはありますから。
実は今日の職員会議は「Behaviour policy review」でした。日本でいう生徒指導はこちらではPupil managementやBehaviour management(生徒管理、行動管理とでも訳せるでしょうか)と呼ばれます。今日の会議の目的は、このBehaviour managementに関する学校の方針、生徒に守らせるルールについての見直しを話し合おうというものでした。私の勤務校のように都市部の公立ではBehaviour managementが学校経営、そして個々の授業を進める上で大変重要な部分です。こういうと語弊があるかもしれませんが、授業中で生徒を「操る(Control)」ことができなければ、授業自体が満足に進みません。いわゆる日本の「学級崩壊」のような状態になってしまうわけです。
私の勤務校では悲しいことですが向学心の薄い子供たちも多くいます。ボールペン一本すら学校に持ってこない子供もいます。そんな彼女らを前に私は「さぁ、面白いことやるわよ!」と場を盛り上げ、「えらいわね、今日は言われなくても自分の席につけたわね、静かにしていられたわね」とどんなに小さいことでもすかさず褒め、それでも問題行動があったら「いうこと聞いてないと居残りよ」、「親に電話するわよ」と警告を与えたり叱ります。時には怒っている「振り」もします。演じるわけです。褒めて叱って、また褒める、そんなことを毎日繰り返しています。
こちらでは教師はほとんど口をそろえて「教師は演じるのが仕事だ」といいます。私自身も教師としての経験が長くなればなるほど納得する言葉です。どんなに理不尽な状況にあっても、侮辱と取れるようなことを言われても、その場では自分の感情をうまくコントロールし、子供の心理を探りながら冷静に指導できなければ子供はさらに難しい行動を取ったりするものなのです。
ましてや(いい意味でも悪い意味でも)自分本位であること、権利を主張することに長けた社会で育っているティーンエイジャー達、自己主張や要求も激しいです。思い通りにならなければまるで3歳児のようにとことん駄々をこねる子供、感情を爆発させる子もいます。我々教師は、そんな彼女らにも他人へのRespect(敬意・尊重)や配慮、ルールに従うことの大切さを日々教えなければならないので大変です。
私も最初の1,2年は「なぜ、自分の半分の年数しか生きていない子供たちにこのような屈辱的な行動を取られなければいけないのか」と放課後ひっそり泣いたこともありました。そういう時、同僚たちは必ず「Don’t take it personally(生徒の発言・行動を自分への個人攻撃だと考えるな)」と言います。子供たちは集団化すると特に教師を普通の感情のある一人の人間だと見ず、攻撃的になることがあります。それを真に受ければ精神がもたないのです。私は東アジア人・英語がネイティブではないというコンプレックスから来る自信の無さに加わって、最初のころは生徒の言動にいちいち反応して自分を追い込んでいたように思います。
と書き連ねてみると私がどれほどひどい環境にいるのかと心配される方もいらっしゃるでしょう(笑)。でも、ご心配なく!色々な表情を併せ持つのが子供たち。もちろん、フレンドリーで優しく、素直でかわいい一面やすごくユーモアのある面白い一面もあるのです。それが一日、一時間ごとに変化するカメレオンのような存在なのです。そんなエネルギー満点の彼女らと接するのは並々ならぬパワーがいりますが、それでも教師を続けたいと思うのは彼女らが時折見せてくれるかわいらしさや突拍子の無さに魅了されているからかもしれません。
八丈島に島流し その1
電話線が切れた。
数週間、ザラザラした音がときどき電話に混じるのには気づいていた。しかし、毎回ではなかったので、そのままにしておく。実は、最初に頭に浮かんだのは 「ねずみの害」である。
家の中にある数ヶ所の電話のひとつが使えなくなったのはずいぶん前のことだ。ねずみキラーのおじさんが来て、床下を見たときに、
「ねずみがかじって、電話線が切れてるよ」と言ったのを思い出す。
(BT-ブリティッシュ・テレコムに連絡しなくっちゃ・・・。でも、面倒だな。他の部屋の電話は大丈夫だし。ま、いいか・・・)
と放っておいたのだ。
で、ある日、突然、他の部屋の電話もプツッと切れた。
・・・・しかし、面倒なことは考えたくなかったので、
「何もなかったことにしよう。明日はきっといい事あるさ」と、その日は寝てしまった。
すると、神のご加護か、翌朝、電話はつながっている。
(日頃の行いがいいからよね)と、自分の都合のいいように信じることにした。
数時間切れる、復活する。半日切れる、復活する。という状態がしばらく続いた。
が、ついに神のご加護を失ったらしく、数日たっても復活することはなかったのである。
「電話線が切れちゃった」と会社で話したら、みんな痛ましそうな顔をした。
「憧れてた人にあっさりふられちゃったのよねー」と言っても、
「あー、またなの。よく、ふられるね。あなたって、性格悪いもんね」などと、相手にされないが、今回は死ぬほど同情された。
「ボイラーが壊れた」 「トイレが水漏れする」 「電気の接触が悪い」など、何か修理が必要なときは、
「よって、八丈島に島流し」という宣告を受けたのと同じ。
これから、辛く、不便で、気が狂いそうなほど長い、長い、長い、日々を覚悟しなければならない。イギリスに住む日本人なら、この気持ちがわかるだろう。
まるで、「部族間の抗争により、村落ごと焼きうちに遭った。家が元通りになるのは一体いつになるやら」というくらいの深刻な出来事であり、遠い目をして自分の不幸に向き合わなければならない。
まず、床にがっくりと膝をつき、 「なぜ、なぜなの? どうして私がこんな目に・・・」と嘆き、涙をこぼしながら、イエローページをめくった。
「電話線が切れたら」の項を読む。まず、 「BTのせいで切れていたら、ただで直すけど、わざわざ修理に行ったのに、お宅の電話のせいだったら、お金をもらうからね」という脅し文句が書いてある。 「それがいやなら、まずチェック」という項目をひとつずつ確認していく。 「プラグがはずれていませんか? バッテリーが切れていませんか? 等々」「どれをやってもダメだったら、BTに電話ください」というところまでたどり着いた。
―――さて、電話線が切れているのに、どうやってBTに電話をすればいいのか?
で、携帯電話の登場だ。だが、ちょっと待てよ。
プレペイドの残金をチェックすると9ポンドしかない。
「あ、BTさん? 電話線が切れたんですが、修理に来てもらえますか? 住所はね・・・」と簡単にいくわけがない。
「ただいま、混み合っております。オペレーターにおつなぎするまで、少々お待ちください」というメッセージが延々と続くだろう。 「グリーンスリーブス」を500回くらい聞かされ、耳のタコがゴルフボールの大きさになるだろう。
オペレーターが出る前に、残金がなくなり、携帯電話の会社からも見放されて、突然、プツッと切れるのは明白だ。
そこで、友人に助けを求めることにする。商談をまとめるのが得意な友人で、ソフトなアプローチながらも、自分のゴールに誘導していくのが上手だ。
私のためにBTと交渉するために生まれてきたような人じゃないの!
「ああ、いいよ」と親切にも引き受けてくれた。
「後で連絡するから」と言うので、1時間ほど待った。
「いやー、オペレーターにつながるのに20分かかったよ」と友人。
―――やっぱりね。
「今日は土曜日だから無理だけど、来週の月曜に修理の人を寄こすって」
ま、そんなもんでしょ。でも、本当に来るのかな?
「たぶん、外の線の問題だから、家で待ってなくてもいいらしいよ」
それなら、いい。会社を休んで、エンジニアを待った挙句、すっぽかされたくない。
しかし、事態は意外な展開を見せた。(大げさだが、次週に続く! 乞う、ご期待!)
February 13, 2008
悪ガキと格闘?
月子さんのブログにあるように英国の青少年の犯罪が増えているそうだ。
そんな予備軍のような子供たち「悪ガキ」は、顔つきが悪い。
なんだか、顔に子供らしさがなく、すさんだ顔つきになっている。
そんな悪ガキと関わり合いを持ってしまった。
先週末は天気がよかったので、運動を兼ねてダーリンと散歩をしていた。
散歩をしながら悪ガキが増えたもの、大人が何も言わなくなった事が原因という記事を読み、
ダーリンは同感だと私に話していた。
日本もそうだが、最近は武器をもっている子供を恐れ、
大人達は悪ガキのとんでもない行動を見ぬ振りをしているのは確かだ。
そんな話のあとに、悪ガキ達が騒いでいた。
何やらドアが空いているバスの運転手に向かって唾をはき、Fワードを言っている。
見ると、バスの外に設置してある非常ボタンを悪ガキが押し、ドライバーにドアを閉めさせず、
バスが発車することができない。
1人の悪ガキが逃げ、また1人がきてそのボタンを押している。その繰り返しだ。
バスはそこで立ち往生している。
年齢は、10才程度だろうか。なんてイヤな事をする子供達だろう。
するといきなりダーリンがその子供の頭をこづき、「止めろ!」と言った。
見ていた私もビックリした。
ダーリンは、熱血漢でもないし、このような時もいつもなら、
「ああ、イヤなものをみた。」という傍観者タイプなのだ。
それが行動にでた。
もちろんこのままでは、終わらない。
こづかれた子供は、一旦逃げたが、仲間がこっちに向かってくるのを知り、心強くなったのだろう
落ちている枝を拾いあげ、我々のあとを追って来た。
その枝を投げたが、我々にはあたらなかった。
そして、「なんでぶったんだ!」と我々に向かって叫んだ。
ダーリンは「お前の行動がみんなの迷惑をかけているからだ。」と答えると
彼の仲間もきて「ぶたれたのか?それは子供虐待だ!虐待だ!」と騒ぐ。
私は「子供虐待?!あんたがバスの乗客に迷惑をかけているのよ!」と言うと
「お前には関係がない」という始末。
そして、我々に唾をはき、石を投げつけてきた。
まだ子供だからナイフは持っていないだろうけど、
やはり5人が相手だと気持ちとして早くここから逃げないとヤバい。と思う。
走るのはしゃくだから、我々は、そのまま歩いていったが、
後ろから我々にFワードの連発の上、小石をなげてきた。
私が後ろを見た時に、丁度石があたると思いよけると、それを面白そうに笑っていた。
その間数分だったが、だれも応援はしてくれなかった。
後でダーリンの背中をみたら、唾がかかっていた。
私はダーリンにいったいどうしたの?と聞いた。
ダーリンは我慢出来なかったと言った。
実は、この場所にくる前にもマナーのない子供たち達が歩道でふざけ、仲間を蹴ったり、
ぶったりして動き回わり、あげくに他人にぶつかっても謝らない。
なんだか野放しにされているちょっとイヤな子供たちを見ていた。
その後に、狭い歩道のうえ、しかも混んだ八百屋の前で客がごった返し、歩道が混み動けないのに、後ろにいる黒人のオバさんがダーリンの背中をグイグイ押すので、嫌がって横にどいたら、
嫌がったのを察知したのだろう、腹いせに彼女が持っていたバックでダーリンが持っていた荷物を叩いていった。
なんてアグレッシブな女だろう。という2件があった数分後に悪ガキどもに出くわしたのだ。
今日の悪ガキは、きっと学校でも問題児で、家では親からの愛情が薄い可愛そうな子供達なのだろう。
そして、大きな変化がない限り、もっとエスカレートした犯罪に手を染めていくのは想像できるような気がする。
10才程度なら、今ならきっとなんとか出来るだろうに。残念だ。
しかし、今後このような子供達が多くなり、
我々は、どうやって自分を守り、他人を気にしてあげられるのだろうか。
我々は、今回の経験で自分たちを鍛えないと悪ガキに対抗できないし、力も持ちたいと思った。
そして、武道をするべきか悩んでいる単純な夫婦だ。
しかし、こうしてブログにかけるのも、何事も起こらなかったから。
ムリは禁物。でも、何かしないとよね。
February 11, 2008
子供と宗教 後日談
先週、
「息子の通っている学校は英国国教会の学校なので、祝うのはキリスト教の祭ばかりで、チャイニーズ・ニューイヤーや他の宗教の祭事には触れてもくれない。寂しい~」
と書いた舌の根も乾かぬうちですが、前言、撤回させていただきます。
なんと、チャイニーズ・ニューイヤーの日に先生は
「今日はチャイニーズ・ニューイヤーです。」
と言い、息子の名前を呼んで皆の前に立つように言ったそうだ。
「家で、新年を祝った?」
と彼に聞いたという。そういえば、クラスの中でチャイニーズの血が入っているのは息子だけだ。
「…はい、新調した赤い服を着て、皆でご馳走を食べました。長いヌードルを食べるのは長寿を願う意味からです。お母さんは、花や新年の飾りつけをして、家の中は赤や金のお飾りでいっぱいです…」
みたいな答えを先生は期待したのかもしれないが、生憎「お母さん」はクリスマス、1月のお正月に酒池肉林の宴を経た後で、間髪いれず旧正月を祝うほど、そこまで私の頭もめでたく出来てはいない。
今年のチャイニーズ・ニューイヤーは平日だったこともあって、(大体日にちも間違えていた…来週だと思っていた)正月らしいことといえば、学校へ行く前に夫が慌しくレッド・パケット(日本のお年玉に相当するもの)を渡した位だった。
そういう訳で、「祝った?」と聞かれて返答に窮した息子は、何を思ったか
「中国では、天気が悪くて人々が家に帰れなくて大変です」
と質問から大幅にずれた回答をしたらしい。(確かにその少し前、中国では悪天候で交通機関が麻痺し、人々が立ち往生している様子がニュースに映し出されていた)
まあそれはそれで、先生は感心してくれたらしい。結果よければ全て良しである。よかったよかった。
偶然だがその日、目から鱗が落ちるような事がもうひとつあった。
学校から帰ると息子は
「ベイビーは皆、生まれてから教会でおでこに水をつけるの?」
と聞いてきた。
学校で洗礼の話でも聞いてきたかな、説明するの難しいな…と思いつつ、
「うーん、教会のゴッドを信じている人のベイビーはおでこに水をつけるけど、他のゴッドを信じている人もいるんだよ。そういう人のベイビーは教会でおでこに水をつけないね…」
と私が言い終わらないうちに、
「うん!エイミーやクシュは、他のゴッドを信じてるよね!」
と元気に言い放った。
はっとした。確かに、いつも遊びに行くエイミーの両親はベトナム人で家には仏陀が飾られているし、幼稚園で一緒のクラスだったクシュはインド人で、ヒンズー教のお守りをいつも身につけている。
息子はダメ押しで、
「マーマ(夫の母のこと)も、他の神様を信じてるよね」
そうだった…。うちにも義母の部屋に仏陀の置物があった…。これぞ灯台もと暗し。
自分の家の中に「他の宗教」のサンプルがあったのに、
「キリスト教の学校に行ったら、その宗教を絶対だと思ってしまわないだろうか」
と心配していた私こそ視野が狭かった。いやーすいません。
しかし子供ってすごいな。
誰に教わるわけでもなく、世の中にいろんな宗教があることを疑問も持たずに肌で理解していたのだな。
というわけで、私なんぞが心配するまでもなく、英国国教会の学校も、子供も、皆柔軟です。
(柔軟すぎて、英国国教会のエライ人は大変な事になってますが)
February 08, 2008
Gang Culture
この国に私が来たのはちょうど6年半前。それから現在まで日本では体験したことのなかったようなことが多々ありました。
もちろん、すばらしい経験となったもの方が大半なのですが、なかにはあまり思い出したくないものもあります。その中で一番ショックなものは引ったくりの被害にあったことでしょうか。人間気が動転すると思わぬ行動に出るもので、私の場合、ひったくり犯と取っ組み合いをしてしまいました。今考えると恐ろしいですね。刺されたりしなくて本当に良かったと思います、、、。
日本でもこういう犯罪はたくさんありますけれど、ここへ来る前はどこか遠い国の出来事のように思っていた節があります。そんな感覚でいた私がこういう経験をしてしまったわけでして、今では「犯罪をより身近に感じる街」というのがロンドンの正直な感想です。
小さな子供や若者を巻き込む犯罪も多いのが現状です。特に最近では立て続けにギャングの闘争に巻き込まれて若者が命を落としたりと悲しいニュースを目にすることが多くなりました。
ナイフを持ち歩く若者が増えていて金属探知機を導入した学校もあると聞きます。私が実習生だった時にも研修先で教員から目の前で殺傷沙汰があった話、自分自身生徒に脅されてナイフを向けられた話などを半ば信じられない気持ちで聞いていたこともあります。その学校はかつてロンドンで1,2を争うほど荒れているということで有名だったそうですが。
さて、私の勤務校はというと、幸いなことに女子校ですので日常的に暴力を目にすることはほとんどありません。小突いたり、顔を引っかいて喧嘩をして処分を受けたという話はちらほら聞いたことがありますが。女の子同士はむしろ悪口の言い合いなど、隠れた場所での言葉を使った暴力が多いように思います。
ただ、これも過去の話になりつつあることを最近実感しています。実は、この「Gang culture(ギャングカルチャー)」とでもいうのでしょうか、若者たちがグループを作り、暴力を使って闘争を繰り返すという文化の兆しは女子校でも少しずつ見られるようになってきました。
というのも先週のある日の放課後に学校のすぐ外で何十人もの生徒が関わったある事件が起こったのです。翌日、10年生のL組の生徒RとAが警察に捕まり停学になったという話をその生徒たちを担任として受け持っている同僚から聞きました。その時点では彼も学校からまだ詳細を聞かされてなかったのですが、どうやらその生徒二人を含む10数人が体育科のある建物からバットとはさみを持ち出して他の生徒に攻撃しようとしたというのです。
すぐに警察が介入し、誰一人として怪我を負うことは無かったようですが、一歩間違えば流血沙汰になったかもしれません。そして数日後に事の真相が明らかになるにつれ、さらに10数名に渡る生徒が退学・停学処分を受けていたことがわかりました。事の発端は前日の昼休みに9年生と10年生の生徒の間で生じた口論だったらしいと聞かされたのは今週に入ってからです。
私が歴史を教えている9年生のクラスからも何人も処分を受けていました。私の学校では授業の出欠をコンピューターで入力するのですが、画面に「E(Exclusion)」つまり停学・退学のマークがついた子供が何人もいて、この子達にも何かあったとは思っていましたがまさか彼女らも関わっていたとは。
その中には普段のクラスではおしゃべりで注意されることはあっても特に態度が悪いわけでもない子も含まれていました。毎週接していた子達ばかりなだけに信じられない気持ちです。教室で話をしたり、笑ったり、時に失礼だったりやんちゃだったりで叱ることもあるけれどなんとなく憎めない彼女たち。今回の事件で彼女らの持つ違う一面を知ってしまい、その子達が急に別人のように思えたことは否めません。
コミュニティ、親、学校の三者が協力して子供たちをそういう文化から遠ざけることが必要と政府もマスコミも言います。そんな中で今の私に一体何ができるのでしょうか。少なくとも停学処分を受けた彼女らが戻ってきたら私は彼女らの良心を信じて接し教え続けていくしかない、そう心に決めていますが、、、。
February 07, 2008
1月の風物詩 その3
電話線が切れたせいで、1月の風物詩が2月にずれこんでしまった。
ま、旧暦と思っていただきたい。
さて、その他、1月にやってくる Dがつく日というのは、
Debt (借金)のD と Depression (憂鬱)のD。
イギリスのバブルは日本より何年か遅れてやってきた。
不動産の価格が日々上昇し、株価も右肩上がり。
テレビでは 「今を楽しまなくてどうする!」 と堅実な暮らしをする人をバカにするようなクレジットカード会社のコマーシャルがガンガン流れた。
私やイギリスに住む日本人の友人たちが、
「この道は、いつか来たみちー。ああー、そうだよー。お母様の国で見たよねー」
と、思わず北原白秋先生の歌を口ずさんだほど、そっくりさん。
質実剛健、古きを尊び、伝統を愛し、成金を侮蔑・・・していたはずのイギリス人は一体いずこへー?
そう言えば、シティで若い女の子がデザイナーブランドのバッグを持っているのをポツポツ見かけるようになった頃が、イギリスバブルの始まりかも。
その昔、イギリス人の女の子はずいぶん地味だと感じたが、この頃は金のかかった、けっこう派手な格好をしている。 (ファッションセンスは、また別問題)
さて、これら流行アイテムはどうやって揃えているんでしょう?
―――そう、悪名高き、ストアカードである。
服を一枚買うたびに、
「ストアカード、いかがですかあ?」と聞かれる、アレだ。
「いいえ、けっこうです」と断っても、
「今日のお買い物が10%引きになりますよ」と、しつこい。
一度、相手があんまり熱心なので、面倒になって申し込んだら、ブティックの店員は目の前でクレジット会社に電話を入れ、他の客にも聞こえるような声で、私の個人情報 (住所とか電話番号とかね)を話し始めたので、思わずカウンターを乗り越えて、店員の首を絞めに行った。
買い物をするたびに、
「ストアカード、いかがですかあ?」で現金を払うこともなく、商品がどんどん手に入る。が、このストアカード、翌月に一括払いをしないと、利息がサラ金のようにつく恐ろしさ。
よく日本のドキュメンタリーでコンピューター処理されたモザイク顔と変換された音声で、「買い物依存症で借金が嵩み、今は風俗で働いてます」とインタビューに答えていたのを思い出す。
―――イギリスでは 「風俗に身を落とす」というのはあまり聞かないが、借金で首が回らなくなった女の子はどうしているのか?
さて、シティはボーナスシーズンである。
男に人気なのはポルシェを始めとして、ハイパフォーマンスカー。
女は 「豊胸術」が最近の人気らしく、 「ボーナス貰って、 『ジョーダン』になろう!」が合言葉。 (*ジョーダンは人工バカデカバストのCリストタレントです)
が、そう言って、羽振りよくブイブイいわせていた連中も戦々恐々の状態だと聞いた。
アメリカのサブプライムローン問題でシティも揺れているからだ。
嵐の吹きすさぶ今年、シティグループは400人首切りした。そうでなくても、ボーナスに 「ドーナッツ」 を貰ったトレーダーも少なくないとか。
――ドーナッツとは真ん中が丸、つまりゼロ。
ドーナッツを食らったトレーダーなんて、 「旱魃の年の農夫」 「シケで海に出られない漁師」 「外反母趾でハイヒールがはけないダンサー」みたいなもの。
札束が飛び交わないシティに金融街としての意味があるんだろうか?
(ま、私はもともと安い給料なので、関係ありませんが。)
さーて、今日はどこへも寄らず、家で安いワインでも飲むか・・・って、暗いぜ。
February 06, 2008
英国とイタリアの違い??
以前にも紹介したダーリンのタフな女性の同僚(自転車に乗り、自動車の接触事故で足を骨折した彼女)の
イエメンへ旅行に行った話が、印象的だったので紹介しよう。
イエメン、決して治安がいい国とは言えないが、たまたま友人が住んでいたとかかで、
彼女は出掛けて行った。
ボディーガードもつけていたが、少しの格闘があって誘拐されてしまった。
一緒にいた友人の1人は、妊娠しており、
もう1人は子供連れなため、子なしの彼女だけが選ばれて誘拐されたらしい。
誘拐と言ってもあまりシリアスなケースはないそうだ。
イエメンの政府への要求(道路を作ってくれとか、学校をつくってくれとか )を
通すためにゲリラが外国人を誘拐し、交渉の材料にするといったケースが多いらしい。
多くの場合、人質は紳士的に扱われ、すぐに解放されるようだ。
彼女もこの国の情勢を知っていたので、あまり騒がなかったが、
最悪なケースも過去にあったので、 慎重に越した事はないと気をつけたらしい。
まず、許されたのは電話をかける事。
彼女はもちろんイタリアの領事館に電話をしたそうだ。
電話に出た人は、慌てて、
「すぐに大使に連絡して折り返し電話をします。」と言って電話を切ったそうだ。
その後、1時間待っても電話がこないので、再度彼女が電話をすると、
「領事館の窓口は、朝の何時から何時までです。」といった窓口が閉まった後に聞く
アナウンスが流れているではないか!!もしかして、連絡がもうつかない?!
しかし、彼女は、少しの期待をした。
このアナウンスの後に「人質になっている人は、◯○へ電話してください。」という
アナウンスが入っているだろうと。
しかし、その期待は見事に裏切られた。
ショック!!
今、人質になっている自国人がいるという非常事態なのに、時間がきたからって、
窓口を時間通りに閉めるなんて。信じられない!!と爆発したそうだ。
まあ、さすが、イタリアだ。と愛想をつかしたそうだ。
じゃあ、どうしたら、、、、。彼女のアイディアは、英国の領事館に連絡することだったらしい。
理由は簡単。
今英国に住んでいるイタリア人だけど、人質になっている。と。
運良く、英国の領事館には人がいて、人質事件として対処してくれたそうだ。
その後、BBCからインタビューの電話は来るし、親とも電話で話せて、
なんだかすっかり人質的な扱い?を体験したとか。
そして、あくる日には「イタリア女性が人質!!」「しかし、イタリア大使の活躍で解放された。」
と大使の写真付きで報道されていたそうだ。
イタリアは何もしてくれなかったが、解決したのは自分たちと新聞に報道されている
自国民の姿を見た時に要領のよさ、軽薄さを思い知ったとか。
そうか、彼女は常に「英国は陽が短い。」「食べ物がまずい。」「物価が高い。」
「安全でない。」と文句をいうのに、
14年間も英国に住んでいるのは、こうした借り?があったことは意外だったなー。
いろいろあるけど、人質になった場合は、
おしゃれなイタリアよりもダサイ英国の方がまだマシっていうわけ?
February 04, 2008
子供と宗教
来週からチャイニーズ・ニューイヤーなんだそうである。
イースターと同じでチャイニーズ・ニューイヤーも毎年日にちが変わる。
その日暮らしで先々の予定を立てるのが苦手な私は、毎年夫に
「来週からチャイニーズ・ニューイヤーだよ」
とリマインドしてもらい初めて、
「ああ、今年も、もうそんな時期か」
と気づく。
それを聞いていた息子も話に加わった。
「去年は幼稚園で、Tのお母さんがライオン・ダンスをしたね。」
ああ、そうだったな。
息子が去年まで通っていた幼稚園では、チャイニーズ・ニューイヤーを学校ぐるみで祝っていたので、中国出身の父兄の一人が、中国の獅子舞を子供たちに披露した、と聞いていた。
この幼稚園は公立小学校の付属だったが、高級住宅地の隣にカウンシルフラット(公営住宅)がある、という地域柄、父兄もイギリス人のミドルクラス&ワーキングクラス、バングラディシュやソマリア、東欧からの移民、インド人のビジネスマンetc、と雑多で、「これぞロンドンの縮図」といったような学校だった。
私はいろんな人種や文化が混沌とひしめきあっているのがロンドンの魅力の一つだと思っているし、様々な肌の色の子供たちが一緒に遊んでいるのを見るたびに、なんだか「オリンピックの入場行進」を思い出し微笑ましい気持ちになった。
まだ偏見のない子供のうちから、いろんな国から来たいろんな人種の子供と一緒に学べる息子は、なんてラッキーなんだろうと、思ったりもした。
その頃、まだ日本語で10まで数えられなかったのに、ベンガル語で数の数え方を覚えてきたときは思わず笑ってしまった。
さまざまな文化背景をもつ子供達を抱える、この学校の努力も素晴らしかった。
クリスマスはもちろん、ヒンズーのディワリ、イスラムのイード、そしてチャイニーズ・ニューイヤーも同等に敬意を表し、子供達と祝っていた。
そういえば去年の今頃、息子のクラスの先生に
「壁に中国語を貼りたいから、書いてもらえない?」
と頼まれて、いくつかの漢字を書いてあげた。
借り物のようにこの国に暮らしている外国人の私だが、この時ばかりは自分の文化が脚光をあびて(正確に言えば中国の文化だけど、まあ近いってことで)誇らしい気持ちになった。
きっと、インド人も、バングラディシュ人も自分の文化が学校で祝われる時、同じ気持ちになったのではなかろうか。
この学校を息子も私も大好きだったのだが、残念ながらレセプションの席は得ることができなかったので、第二希望の英国国教会の学校に昨年から通うことになった。
私は無宗教だが、夫は8年近く、近くの教会に通っている。
教会系の学校に息子が通うことになって夫は喜んでいたが、私はどうも複雑な思いがした。
現代のようにいろいろな価値観が混ざり合っている中で、ひとつの宗教だけを子供に教え込むのはどうなんだろう。
大人になってからどの宗教を持っても持たなくても勝手だが、無垢な子供に大人の選んだ宗教を「洗脳」するのは、どうも腑に落ちない気がした。
ためしに息子に
「学校の先生、チャイニーズ・ニューイヤーの話する?」
と聞くと、
「ううん。今は、イースターの話してる。」
との事。そりゃそうだよな。でもなんか寂しいな。
教会の学校に願書を出したのは親である私達だし、納得した上で通わせることにしたのだから、こんな御託を並べるのが筋違いであるのは百も承知の上だが、なんとなく、一神教を教え込むよりも、
「世界には色んな文化や宗教があります、皆でそれを理解し祝いましょう」
と子供に教えるほうが、今の世の中に合っている様な気がする。
まあ教会系の学校が「ゴッド」や「ジーザス」の話をするのは当然だし、いい学校ではあるんですけどね。