November 15, 2008
心温まる午後。
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今日はFlexible Fridayというプロジェクトの一環で、私の学校周辺にある歴史的建造物や歴史的人物の石碑などを見せに7年生を学校の外に連れて行きました。
私の担当するプロジェクトは私の学校のある東ロンドンの歴史を学ぼうというもの。普通の歴史授業と違ってクラスサイズが20人と小さいこともあり、普段できないアクティビティをたくさん取り入れています。
今日の「Walking Tour」(徒歩で名所を色々回るツアーをよくこう呼びますね)でも、ただ現場を訪れるだけでなく、授業で得た知識をつかって生徒同士がその場所に関する質問をしあうというインタビュー形式のアクティビティをおこないました。
最近学校が購入したビデオカメラも持っていって生徒のインタビューの様子を撮影。途中で同行した同僚Aの発案で生徒全員で即興でドキュメンタリープログラム風にしたり、、、。NG連発に皆で大笑いしながらとても楽しいツアーになりました。
でも、ツアー中で私の心を一番温めてくれたのは授業内容に関することではなく、生徒Jとの会話。
私は目的地に向かう生徒の列の最後方にいたのですが、彼女は私と並んで歩いていました。とっても体の小さい、はたから見たら小学生じゃないかと思ってしまいそうな可愛らしい女の子です。
その彼女が授業の始まる前にちらりと「お母さんが赤ちゃんを生んだ」と言っていたので、歩きながらふと「いつ生まれたの?」と聞くと、何と昨日。
月曜から入院していたお母さんが今日は赤ちゃんを連れて帰ってくるそうです。そして遠方からもたくさんの親戚たちがお祝いにやってくるそうです。もう彼女はうきうきして仕方がない様子。
実は彼女、妹や弟ができるのは初めてではなく、下にすでに年がそんなに変わらない弟と6歳の妹がいるそう。今回生まれた女の子を入れて4人きょうだいになったわけです。
そんな彼女が言った言葉。
「今日は私の人生で一番幸せな日。」
11歳の小さな女の子が胸いっぱいに感じている幸せ。それを素直に言える純粋な心。私の心まで温かくなりました。一体「あぁ、人生で一番嬉しい瞬間!」と私が最後に思ったのはいつだったか、、、。
「私はね、長女だからこれからいっぱい妹と弟のお世話を頑張らなきゃ!オムツの替え方も頑張って覚えなきゃ!!」と誇らしげに語ります。
「大きくなって弟と妹がいたずらしたり、悪いことしたら叱らなきゃだけど、でもやっぱり私は妹と弟たちのそのままが好き」と言った彼女。彼女の言葉には愛情が溢れ、その姿は本当にまぶしいものでした。
きっと今頃、彼女の家では彼女の家族とお祝いに来るたくさんの訪問者たちと一緒に生まれたばかりの妹を囲んで幸せなときを過ごしていることでしょう。
そんな彼女に感化され、私も日本にいる家族のことを久しぶりにゆっくり考えたのでした。
November 10, 2008
ガジェットオタクの心をくすぐるヤツ。
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先週はここ数年のIT技術導入によるイギリスの教育現場の変化について書きました。なんと、今年はさらに「ガジェットオタク教師」月子の心を刺激するものが登場しました。
その名もFronter。
今イギリスの教育界でさかんに騒がれているvirtual learning environment(VLE)やmanaged learning environment(MLE)とよばれるコンセプトに基づいて導入されたコンピューターシステム(プログラム)です。
あるサイトではこのシステムを’a set of teaching and learning tools designed to enhance a student's learning experience by including computers and the Internet in the learning process’ と説明しています。
平たく言えば、教師と生徒、教師同士、生徒同士がネットと接続されているコンピューターを通してコミュニケーションをとることを可能にしたり、生徒の学習を助けるためのシステム。
従来のようにやみくもに生徒がWebにアクセスして情報を得たり、教師と生徒がE-mailなどでやり取りをするのではなく、Fronterというプログラムはその学校に属し、アカウントを持ったユーザー(つまり教職員と生徒)だけがアクセスできる空間であり、実に様々な機能が備わっています。
具体的にどんなことができるかというと、例えば、教師がFronterのサイト内に担当する各クラスのためにホームページみたいなものを作成できます。
Fronterは学校に在籍する生徒の個人情報(成績、出欠率、学習障害の有無など)を管理するSIMsというシステムと互換性があり、Fronter上で各クラスにアクセスすると生徒の名簿が見られるわけです。例えば、9年E組のページはそのクラスの子供だけがアクセスできるようになっています。ちなみにページを作成する権限は基本的に教師にのみ与えられています。
そこには教師からのメッセージや写真を載せるばかりでなく、様々なリンクを貼ることができます。例えば、授業で教材として使うPowerPointやWordの文書を載せておいたり、生徒に見せたいビデオクリップを載せたり、宿題としてやらせたい課題を載せたりも出来るのです。
また、生徒同士、または生徒と教師が意見交換が出来るフォーラム(掲示板のようなもの)を作成したり、生徒にアンケートをとったり、投票させたりすることもできます。単にメッセージを送りあうことも可能です。
さらには、生徒がやり終えた課題(例えばWordを使って書いたエッセイなど)をアップロードすることができ、クラスのページから直接教師に提出することもできます。教師は各クラスのページで課題提出を終えた生徒、そうでない生徒を一覧できます。
Fronterを使ってmultiple choice (あらかじめ複数の解答の候補が与えられた問題)の問題を作成しておけば、生徒が提出した際に正答かどうかのチェックもFronterがおこなってくれ、点数も付けてくれます。
このFronter,一応夏休み前に導入されたものの、我々教師は研修もまともに受けないままで新学年に突入してしまい、なかなか活用されることの無いまま数ヶ月が過ぎた状態でした。
一応、飛び入り参加OKの研修会も度々ありましたが、ミーティングがあったり、授業があったりでほとんどの教師が参加できないまま。ハーフターム前にようやく学校の上層部も重い腰を上げ、半日を費やして教師の一斉研修をおこなったのです。
私自身も「Fronter?そんなことやっている場合じゃない。生徒のノート150冊も採点しなきゃなのに!」と休み前は全く余裕がありませんでした。
が、この研修でFronterに一気に惚れました(笑)
とっつきにくいシステムではありますが、一回使い方を覚えれば、ページの作り方も、リンクの貼り方も、フォーラムの作り方も簡単です。でも、プログラムのことを何も知らない素人の私でも色々なことができてしまうわけです。
イギリスではどうやら2010年までに全ての学校でこのVLE・MLEを導入しなければならないようです。
なんというか、すごい時代に教師になったんだなぁと実感させられます。もちろん、生徒と直接交流することが大前提なわけですが、このFronter, 上手に使えば授業を欠席した生徒やコースワークが遅れがちな生徒、復習をしたい生徒などを効率よくサポートできる便利なシステムだと思います。
さぁて、次はどんな機能の使い方を覚えようか、、、。
ガジェットオタク心をくすぐられる毎日です。
November 03, 2008
「ガジェット」オタク教師。
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実は私、典型的な文系人間として生きてきたため、ITの勉強なんてしたことないですし、コンピューターの中身が一体何なのかをほとんどわかっていません。
が、妙に面白い機能満載の携帯やらパソコンのプログラムに好奇心を燃やしてしまいます。
要は「Gadget(ガジェット)」オタクなんです。Gadgetとは英語で「目新しい道具、面白い小物、携帯用の電子機器」などのことです。
しかも、ガジェットオタクの特性なのか、こういう電子機器はマニュアルを読みながら使うよりも自分で新しい機能を発見したりして使い方を覚えていくのが好きでたまりません。
まぁ、もちろん私のIT知識ではガジェットを使いこなすにも限界はあるのですが。
ここ数年、この私の「ガジェット探求力」が教育現場で活かされつつあります。
実は、イギリスの学校では公立でも各教室にInteractive whiteboardとよばれる電子黒板(コンピューター、プロジェクターと連動しており、専用のペンを使うと黒板のように自由に文字を書いたり、コンピュータースクリーン上のものを自由に投影できる便利なホワイトボード)があります。
私が5年前に初めて勤務校に来たときには各教室にコンピューターも無く、プリント、教科書、そしてOHP(透明のフィルムに手書きで文字を書いたり、資料を印刷して、光をあてて壁に投影する器械です)を使った授業が主流でした。
かろうじて学部に一台、モバイルのプロジェクターとラップトップコンピューターがありましたが、20人近くいる同僚との共用ですから使うことはまれでした。
それが今ではOHPは化石のような扱いになり、授業でプロジェクターとパワーポイントを使った授業はごく普通になったわけです。板書もほとんど必要がなくなり、直接ワードかなんかで文字を打ち込めばそのままホワイトボードに投影されるわけです。
おかげで「先生の文字が読めないー」なんていう生徒からの苦情も減りました(笑)
自称ガジェットオタクの私にとって、パワーポイントのスライド作りは骨の折れる作業ではありますが、私にとっては非常に楽しい時間でもあります。常に新しい機能を探求し、その機能を活用できた時は一人で喜びをかみしめます。
とういうわけで、この数年間の新技術投入による教授法の変化は相当なものです。授業にITをより多く取り入れることが奨励されていいます。
便利になった反面、教師が常に新しいIT技術に目を向けていなくてはならなくなりました。私も波に乗り遅れないように、これからもせっせと自己トレーニングを続けていくわけであります。
October 23, 2008
ES
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今年になって初めて体験するようになったことがあります。それはES dutyというものです。
ESとはEmergency Supportの略です。これはいわば、授業中の教師をサポートするシステム。Dutyは日本語だと義務、ですね。
普通、生徒の間で激しい口論がはじまったり、生徒の態度が非常に悪く授業にも悪影響を及ぼす状態など、教室で生徒が問題を起こした時には、いくつかのステップを踏んで解決することが教師に求められます。
大抵は、居残りをさせる・隣の教室に「送還」されるなど「今態度を改めないとこういう罰を受けることになるよ」という警告を与えると生徒も落ち着くものなのですが、それでも聞かない場合は落ち着かせるために廊下に少しの間立たせておいたり、その場で他の先生の教室に生徒を送ります(生徒はこれをされるのが嫌いです)。
それでもクラスが収まらない、学部内の教師同士の協力では状況が解決できない場合にその時のES Dutyを課せられた教師が教室に呼ばれます。
私の今年の時間割には私もこのESとして待機しなければいけない時間が二週間に一回あり、その時は学校が管理している携帯電話を校舎内で持ち歩いていなければいけません。そして、問題が発生したら携帯に電話がかかってきて呼び出されるというわけです。
私の場合、高学年しかいない校舎担当なので割りと授業は落ち着いている傾向にあり、しょっちゅう呼ばれることはありませんが、一度は学校内でも有名な生徒(もちろんネガティブな意味で)が教室で問題を起こしているということで呼ばれました。
瞬間湯沸かし器のような感情の起伏の激しい生徒、その生徒の感情を逆撫で無いようにしつつ、教師のESを呼んだ訳を聞き、生徒の言い分(大抵は頭ごなしに教師を否定するのですが)を聞いて状況を改善しなければなりません。とっても神経を使う瞬間でした。
まぁ、普通ESが呼ばれる状況になると生徒もこれ以上問題を起こしたら校長から居残りを貰うか、下手をすれば停学になるので大抵の生徒はそこで収まります。
昨日は再び私のES担当日。でも、穏やかな日でした。一人授業中に具合が悪くなった子がいて、その生徒を家に送り返すか否かを決定するために呼ばれたことはありましたがそれ以外は何事も無く。
で、私が取った行動。採点しなければいけない生徒のノートがあったのですが、いつもはオフィスに閉じこもってやるところを、思い切って屋外のベンチですることに。
だって、すごい良いお天気だったんです。雲がほとんど無い美しい晴天。ロンドンの秋は雨も多いですからこれは幸運なこと。昼間は普段ほとんど校舎に篭りっきりで、仕事を終えてでると外ももう暗いですから、久しぶりに日光浴をしながら効率よく仕事もできて大満足な私でした。
さぁ、次回のES Dutyはハーフターム後。何事もなく終わりますように、、、。
October 16, 2008
SATsの終焉。
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一昨日、フォトコピー室で教材準備をしていると、同僚のVがやってきました。「BBCのニュース聞いた?」と私にたずねる彼女。
一体何のことかと首をかしげていると、驚きの情報が飛び込んできました。何とKey Stage 3のSATs(サッツ)が廃止されるというのです。
Key Stage3というのは7年生から9年生までの三年間の過程で、日本でいうと中学校にあたります。
SATsというのはイングランドのNational Curriculum(学習指導要領)に基づいた数学、英語、理科の全国統一試験(過去には情報処理のテストが導入された年もありましたが去年廃止)で、小学校6年と中学校3年の時点での受験が求められます。
ところが今回、この中学校3年、つまりイギリスではKey Stage3の最後の学年で受験されていたSATsが廃止されることになったのです。
元々このSATs、子供から学ぶ楽しみを奪っている、スキル重視になりテクニックさえ身につければ点が伸ばせるため、学力試験としての信頼性が低下しているなどとその弊害・欠点が多く語られ、教師の労働組合から毎年批判が寄せられ、廃止が叫ばれているテストです。
子供の学力低下を危ぶむ政府としては断固として廃止にはしないとは思っていましたが、今回、夏にSATsの結果発表が全国各地で大幅に遅れた批判が相次いだこと、もともとKey Stage3のSATsはGCSEなどと比べると結果が重んじられることも少ないため、今回の廃止に繋がったようです。
それにしてもイギリスで「イギリスの子供はヨーロッパ一、試験漬けにされている」とよく聞かれますが、中学校受験からはじまり、中学高校と学期末試験、学年末試験と学力が頻繁に数字ではっきりと評価され、大学受験に至るまでかなり勉強漬け、テスト漬けな日本の教育を受けた私から見たら、「そんなにすごくもないのでは、、、」と正直思ってしまいます。試験漬けがいいのか悪いのかという議論はここでは置いておいて。単に個人的な試験量比較です。
実際、日本の試験のフォーマル度(?)から比べたら、我が校でおこなわれる各教科の試験は非常に曖昧なものに思えます。試験期間というものは学年末に一応存在していますが、厳しい試験の時間割があるわけでもなく,歴史科では特に一学期に一度ほど、何らかの形で生徒の学習到達度を評価していればOK。
最後の学年末の試験も一年でやった全ての内容を細かくカバーして無くてもよく、実際、悪い点をとっても「どうせGCSEで歴史取らないし」と堂々と開き直る子供の姿も見られるほどです、、、。なんというか、「試験」=「必死に頑張らなきゃいけないもの」という図式が成り立っていないというか、とにかくフォーマル性に欠けるのですね。
こういう状態でSATsが無くなると、もちろん数学、英語、理科の教師のプレッシャーは大幅に軽減されますが、一体、生徒がどのように反応するのやら。ここは東ロンドンの公立。生徒の間で「なーんだ、SATsがないならそんなに勉強しなくてもOKじゃん」なんてことにならないといいのですが。
まぁ、今までSATsが終わると同時に反動で歴史を含めたほかの教科でも一気に学習意欲をなくしてしまう子供が少なくなるは有り難いことですが。
ところで今朝、今年の夏にSATsを受けたばかりの10年生である私のクラスの子供たちが発した言葉。
「私たちがSATsを受けたことに一体何の意味があったの?!」
、、、疑問に思うのも不思議はありません。大人の決め事に一番振り回されたのは子供、本人ですからね。さて、SATs導入、そして廃止、本当に意味があったのかなかったのか、これから数年で明らかになるのでしょうか。
October 12, 2008
M-Word 再び
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今年も始まりました。
M-word連発の日々(過去ブログ「M-Word」参照)、つまり怒涛のマーキングの日々が(泣)
このマーキング日本語だと「採点」と訳されますが、実際、7年生から9年生までの 歴史では課題やテストを数字で評価をする場面は少ないです。
歴史を教えれば教えるほど、点数を付けることが困難な教科だと痛感します。
今、最優先でやらなくてはいけないのは9年生の生徒のノートのマーキングですが、授業で与えた課題、宿題として与えた課題を含めて全部いわゆる記述式の解答です。
生徒に課題を出す際にはあらかじめ生徒が目指すべき到達目標、教師が評価する際の基準を示しておきます。例えば、エッセイならばどのくらいの史資料を使わなければならないのか、どういった語彙を使わなければならないのか、史資料はやみむもに丸写しせずに、自分できちんと理解し、情報を選択した上でしっかりと生徒の文章の中に表現されているかなど、明確に示しておきます。
これは教師にとって注目すべきポイントがあると客観的にしっかり評価できるので重要ですし、課題をやる生徒にとっても含めなければいけないポイント、注意すべきポイントがわかるのです。
今回、9年生に出した課題は、奴隷制・三角貿易に関連し、アフリカ人がどのように奴隷となりアメリカに渡ったのか、奴隷船の様子はどんなものだったかなどを史料を使って、まるで奴隷自身が書いているかのように手紙式に生徒が表現するというものでした。
もちろん、当時奴隷となったアフリカ人たちが実際にこのような手紙を書いたはずも無く(元奴隷の書いた伝記はありますが)、ましてやアメリカへ向かう奴隷船の中で自分たちの体験をその場で直接表現する機会はなかったので、こういった課題を出すには生徒が間違った認識をしないように注意が必要ですが。
それでも生徒はこういった形(手紙形式や日記形式、もしくは実際に自分たちで演じてみるDrama形式の課題など)で自分たちの理解・知識を表現するのが好きなのでよく歴史の時間ではこういった課題が出されます。
さて、この課題はそれぞれの生徒がノートに2ページ近く書いているのでそれを一つ一つ読んで評価をつけるとなると一冊のノートをチェックするのに最低10分から15分ほどかかります(大体ノートチェックは6週間ごとにされます)。
課題の評価にはよくイギリスのナショナルカリキュラム(学習指導要領)に基づいて作成された「Level descriptor」と呼ばれる到達可能レベル表が使われます。例えば、あまり史料を用いずに書かれたものは到達レベルが3や4、もっと積極的に多様な史料が効果的に使われ、なおかつ明確に説明されていればレベル6や7など、生徒の課題をレベルで評価するのです。
ただレベルだけを記すだけでは生徒がなぜそのレベルしかもらえないのか、上のレベルに到達するにはどんなところを頑張ればよいのかがわかりませんから、レベル表にはそれぞれのレベルの特徴が明示されており、教師もそれをもとに生徒にアドバイスとしてコメントを書きます。
初めはこのレベル付けが私の苦手な分野で、1つ上のレベルを上げるべきか否かなど、判断に迷うこともしばしばありましたが、最近はその作業も早く自信を持ってできるようになってきたとは思います。
なんとも骨の折れる作業なのですが、生徒がどのように課題の目的を理解して取り組んでいるか、このレベル表を使うと手に取るように分かります。忠実にやっている子、自分の知識(と想像力)だけを使って到底歴史的事実と合わないことを書き連ねてしまう子、実に様々です。
ところで、本日採点したノート冊数20冊。再来週の水曜日までに採点するノート、約100冊。
100冊×(かける)15分、、、思考停止。
うーん、長い道のりに気が遠のきそうです。
October 05, 2008
神に救われた日、、、?
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今週の火曜日はイスラムのラマダン(断食月)明けを祝う聖なる祭日、Eidの日(正式にはEid ul-Fitr)でした。
ムスリムの生徒たちにとっては気分はクリスマス。新しい服を新調してもらったり、長いラマダンが明けて美味しいものをたっぷり食べれる日なのです。
実はこのラマダン、太陰暦に合わせて毎年来るため、毎年始まりがずつずれます。
去年もラマダンについて書いたのですが、日付を見てみると何と12月でした。今年のラマダンは9月初頭からでこの次期はまだ日も長いので、断食する人たちは去年より大変だったことでしょう、、、。
さて、ラマダン明けがいつなのかは何とイスラムの高僧が月の満ち欠けを見て判断をするそうで、毎年、普通のカレンダーで見て29日目に来るのか30日目にくるのか微妙に変わります。
今年のムスリム教徒の同僚の予想ではちょうど30日目に当たる火曜日でしたが、なんど行政区の判断では10月1日水曜日。
イスラム教徒が90パーセントを占める我が校ではEid当日は登校する生徒がほとんどいなくなってしまうので水曜日は休校になるというアナウンスがされました。
ところが月曜日の夜の発表でEidは火曜日に(まぁ、同僚の予想が当たったってことですね)、、、。
私はそんなことを知らずに火曜日に登校したのですが、なんと朝一で緊急スタッフミーティング。登校してくると予想される生徒が一学年で30人くらいづつしかいないので(本当は一学年240人)、特別編成授業がおこなわれること、水曜日は予定通り休校ということが説明されました。
どうやら学校側、行政側も、仮に火曜日を休校にしていたとしても、Eid翌日の水曜日も欠席者が大半になるはずだと予測していたそうです(つまり、結局休校にするのはどっちの日にちでも良かった)。
さて、予想は当たり、火曜日は一学年30人にも満たない出席率でした。バングラデッシュ系、ソマリア系、、、とにかくイスラム教徒の教師も生徒も全くいない状態なので必然的に学校は白人の生徒、アフロカリビアン系の生徒、少数ですがアジア人でもヒンズー教徒、そしてベトナム系・中国系の生徒だけとなりました。
普段は80パーセント以上がバングラデッシュ系のアジア人ですから私にとってはなんだか異様な光景でした。
人文学部では1,2時間目に9年生全員を集めて授業、3,4時間目には7年生を集めて授業をすることになり、私は同僚二人とともに7年生の担当をしました。
授業といっても普通のカリキュラムを教える授業はできないので、生徒みんなで人文学系の教科(歴史、地理、宗教など)について話し合いをした後、グループでポスター作り。7年生なので皆夢中になってやってくれました。9年生の授業になると「なんでうちらだけ学校来て授業受けなきゃいけないのー?」という空気が漂うものですが。
私としてはTeam teach(複数の教師がチームを組んで授業をすること)をしたことのない同僚と授業をやれたし、何よりも授業のあるはずだった1,2時間目、午後もかなり溜まっていた授業準備をたくさん進めることが出来たので満足でした。
そして翌日水曜日は休校で学校も閉まっていたので自宅でゆっくり過ごし、溜まっていた疲れも取ることができました。これは本当に助かりました。
全く本来のEidの意味とかけ離れてますが、私までちゃっかりアラーの神の御加護を受けてしまったわけです。
不謹慎にも「神に救われた日」でした。
September 25, 2008
珍入者
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今日は闖入者ならぬ珍入者について。
授業をしていると度々クラスに人が訪ねて来ることがあります。
教室に椅子が足りないといって借りに来る生徒、授業をさぼった前歴がある子の出欠をチェックしに来るスタッフ、教室においてある教材を取りにくる先生、、、。
でも、今日の訪問者は一味違いました。
それは7年生の授業中の出来事。
今日の課題の説明をしていると、窓際に座っている生徒が困った顔で「先生!」と助けを求めてきました。
なんと、床に「巨大な」蜘蛛がいるというではありませんか。
それを聞いた他の子の顔が引きつります。
実物が見えない私はまた生徒が大げさに「巨大」なんて言ってるんだなと思い、「蜘蛛は噛み付かないし、何にも悪いことしないよ。授業に集中しましょう」と生徒の意識を授業に戻そうとしました。
でも、蜘蛛の真隣りに座っている生徒は床に足を付けることすら怖くて出来ません。
「え、そんなに大きいの?」と思い、実際見てみたら、、、確かに大きい。全長3センチ以上あるでしょうか。
私もひとりで自宅で遭遇していたら驚いて叫びそうなサイズでした。
子供たちが何とかしてくれという顔で私を見つめます、、、!
これが9年生だったらここぞとばかり騒ぎ立てることでしょう(ほんと、一度、蜂が教室に入ってきて大騒ぎになったことが、、、)。
でも、まだまだ学校に慣れない7年生たちはどう反応すればいいのかも分からず、かといって授業に集中することも出来ず、固まってます(苦笑)。
こうなったら、私も躊躇う気持ちを押し殺してなんとか蜘蛛に退場してもらうしかありません。
実は、私、蜘蛛が苦手です。家にも場所柄、数匹入ってくることがありますが、いつも目撃してしまうと数秒固まります。
「蜘蛛を殺してはいけない」という親からの教えでゴキブリみたいに叩いて殺せない私(それに蜘蛛は虫を採ってくれますしね)。
そんな私がとった行動。机にあったA4サイズの紙を手に持ち、蜘蛛のいる列に座っている生徒全員に退避を促しました。
そして、おもむろに蜘蛛と対峙(内心どきどき)。
手に持った紙で内心「頼むから手に乗ってこないでー、あんまり動かないでおくれー」と叫びながら蜘蛛をすくう作戦に出ました。
でも蜘蛛はすばしっこいのでなかなか乗ってくれません。私の足の周りを逃げ回る、逃げ回る(涙)周りの生徒も失敗するたびに「あーーーーっ」と半ば恐怖の声を上げて反応。
4回目くらい試みてやっと乗ってくれました。火事場のクソ力ならぬクソ根性全開にしてそのまますかさず、窓からぽいっ(ごめんね)。
その直後に生徒から「わぁぁぁ」という歓声(そして安堵の声)。
うーん、不思議と教師という立場にいると人は恐怖に勝てるんですねぇ。全然誇るようなことじゃないくせにちょっと誇らしい気持ちになってしまった私。
それにしてもあの場で一番怖かったのはきっと、あの蜘蛛本人だったことでしょう(笑)なにせ30人もの(蜘蛛から見たら)巨大な生徒があんな小さな小さな生き物を見つめていたわけですから。
果たしてこれが巨大ゴキブリだったら私は同じことが出来ていたのか、、、。ゴキブリの滅多にいない国にいて良かったと心底思う私です。
September 19, 2008
ハラハラドキドキ。
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新学期が始まって3週間目も終わりに近づきました。
私の「天敵」である「採点」作業はまだほとんどありませんが、授業計画、教材作りにかなり追われている毎日です。
なにせ、今年は7年生から新しい学習指導要領が導入されて、より「学ぶためのスキル向上」に焦点を当てた、より「子供が授業内の活動の中心となる」ような授業作りが推進されているため、授業で子供に与える課題、そのための教材も工夫がなされたものでなくてはいけないのです。
一昔前ならイギリスでも教科書や情報を載せたプリントを使う授業があったようですが、歴史教育の現場、特に私の学校ではそういうものから離れて授業をおこなう傾向が強いです。
また、新しい指導要領では教科間の垣根をなくして幅広い知識とスキルを身につけさせようという考えが根底にあり、歴史を学びながら地理、宗教などの同じ人文学系の科目のみならず、英語、美術など他の分野との関連性を強調した授業案作りがおこなわれています。
私も今年は学科主任として7年生の学習指導案を書いているわけですが、何か新しいことを始めようと思い、同僚の地理教師であるEと一緒に歴史科と地理科の共同プロジェクトとして7レッスンを一緒に計画しました。
テーマは「自分のルーツ探し、そして自分の生活基盤である地域を知る」。具体的には自分史を書くところからスタートし、私の学校のある東ロンドンの過去、現在、未来について学び考えようというテーマで、歴史の授業では特にユグノー、ユダヤ人、ベンガル人など、その時代時代でBrick Laneという場所に移り住んできた移民たちの歴史や、現在再開発が進んだDocklandsの過去、Dock(造船所、波止場)の過去、重要性などを考えさせるというもの。
同僚Eが担当する地理では、歴史でカバーした内容をふまえて、今、移民の街だったBrick Lane一帯がどうなっているか、昔工業地帯、船着場としてにぎわっていたDocklandsが今、どのようになったのか、なぜ変わったのかに焦点にあて、その上でその両地域のこれからを考えるという内容で授業をおこなうことにしました。
なおかつ実際に両方の地域を生徒が実際に訪れるというFieldwork(現場訪問)も加えたのですが、この計画、実行のための手続きがなかなかの大作業。
まずは人文学部の主任である同僚Oへの打診のために大体の構想をまとめて文書作り。今年は歴史、地理、両教科ともに4-5名の教師が7年生の授業を教えているため、それぞれの先生が何月何日に、何時から何時まで生徒を連れて行くのかを全てチェックする作業からはじまりました。
それから現地までの行き帰りにかかる時間の想定、現地到着後の課題の計画、教材作り、そして実際うまくいくか確かめるために放課後にTest drive(試乗運転)ならぬTest Tripをおこなうなど、ここ数週間はこの諸々の作業でへとへとでした。
それでも、私も同僚Eも作りたい授業のビジョンが似ていて、一緒に働いていても苦にならず、彼女もどんどんアイディアを出していってくれたので、教材を作り上げる作業は大変やりがいのあるものでした。
さて、ここまでやっても校長から最終的に実行してもよいという許可が下りなければ駄目なのですが、学校もこういった教科間同士の連携を奨励しているわけですからNoとは言えまいと信じています(でも、内心かなり心配しています)。
実行まであと二週間ちょっと。成功するのか、計画に携わらなかった先生たちにも明確にFieldtripの内容を伝えられるか、そしてそれをしっかり実行してもらえるか。生徒たちは学ぶ喜びを見出してくれるか。今から心配はつきません。
でも、例え大成功に終わらないとしてもこれだけ時間をかけて準備したのですから後悔はない、そう大胆にも思っている私です。
結果はそのうちまたブログでお伝えしたいと思います。
September 12, 2008
コーンビーフよ、さようなら。
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今回のキーワードである「コーンビーフ」、実は私にとってはこの学校で働き始めてから起こった様々な出来事のなかでも忘れられない記憶を呼び起こすモノです。
私の学校、教員も利用できる生徒用の食堂があるのですが、我々が利用することは滅多にありません。なにせ、お昼時は忙しいので生徒と一緒に列に並んでお昼を買って、一緒に座って食べる余裕がありません。
そのため、大抵のスタッフは自分で家からお昼を持ってくるか、外のお店に買いに行くか、スタッフルームで売られているサンドイッチなどの軽食類を買って食べています。
私は朝に弱い性質でして、朝起きてサンドイッチやおにぎりを作ることが一年に数回あれば良いほう。
外に買いに行くのも面倒な私は、いつもはスタッフルームでサンドイッチやサラダを買うことがほとんどです。
ですが、そのサンドイッチ、とってもイケてません(笑)
巷のカフェのサンドイッチの味が私が7年前に始めてロンドンに来た頃と比べると格段に向上したように思える昨今、私の学校のサンドイッチは時代を逆流するかのような代物です。
使ってあるパンも耳が異様に硬い、お世辞にも美味しくないものなのですが、特にサンドイッチの中身がすごい、、、。
4年前に初めて見たときはそのラインナップを見てかなり引きました。
ツナマヨとコーン、ツナマヨとキュウリ、ハムとサラダ、、、とこのへんは至って普通(でも味は普通以下)なのですが—
チーズとサラダ。
まぁ、ベジタリアンの人は食べたいかもね。でも、なんでチーズがピザ用のみたいに細かく切ってあるわけ?
サラダだけ。
、、、えっと、ダイエット中だったらいいかも?
ソーセージとケチャップ。
ボ、ボリュームを求めている人にはいいのかな?でも、冷たいソーセージって、、、。
そして、
コーンビーフとオニオン。
えっ?
サンドイッチにコーンビーフ?
しかもオニオンは薄いスライスではなく、かなり大雑把に切っていかにも水にさらしてなさそうな生オニオン。
コーンビーフも味付けしてあるわけでなく、缶詰からそのままGO!といった感じ。
そんなサンドイッチ、見たことの無かった私には衝撃でした。
そしてある日、お昼ご飯を買いそびれていて、昼休みの最後のほうになってからスタッフルームへ行ってみると、食べ物はほとんど売り切れ状態。
そこにぽつりと残されたサンドイッチが目に入り、(大げさではなく)祈るような気持ちで中身を確かめるとそれは、、、
コーンビーフとオニオン。
「物は試し。お昼食べないよりはまし!」
と、そのサンドイッチを買いました。
そして、すぐに激しく後悔。
コーンビーフはぽそぽそ(あたりまえですが)、オニオンはからいはオニオンくさいは、そして胃にもたれるはで泣きそうでした。
特に水にさらしていない生のオニオンがあんなに強烈であったとは。
一生懸命うがいを試みたものの、あのオニオン臭さは口の中に強烈に残りました。それは今でも記憶と嗅覚に焼きついているほど。誰も何も言わなかったけど、あの時の私は相当オニオン臭かったに違いありません。
、、、となると一番の被害者はあの後、私の授業を受けた生徒たち。ごめんなさい。
さて、そんなコーンビーフ事件から数年たち、何と今学期からあの恐ろしいサンドイッチ達とさようならをすることが出来ました。
何とあまりの評判の悪さに痺れを切らした用務員のおじさんたちが、新しいサンドイッチ売りの女性を学校に招いて、その彼女が新鮮なパンと中身でその場でサンドイッチを作ってくれるようになったのです。
あぁ、学校でこんなに美味しいサンドイッチを食べれるようになるなんて。
コーンビーフ&オニオンよ、永遠にさようなら!
September 05, 2008
5期生
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今日から新学年の授業が始まりました。
月曜からの3日間、様々な授業やプロジェクトの準備でてんてこ舞いになっていたので、結局今日の授業準備をまともに始められたのは昨日帰宅してから。
今日は9年生2クラスと10年生の授業だったのですが、特に10年生の授業はGCSE (The General Certificate of Secondary Educationという資格をもらうための試験コース)のクラスなので生徒たちが歴史への興味を持ちつつ、試験のための知識・技術を向上させることができる内容でなくてはいけません。
はじめの授業でどれくらい生徒を引き込めるかで今後の授業の雰囲気も決まってくるので準備にはかなり力が入りました。
今年の10年生クラスのメンバーのほとんどは7年生の時に私が歴史を教えていた生徒たちでそのうちの半分くらいは9年生までずっと私が受け持っていました。
彼女らの学年は8クラス中7クラス教えていた年もありましたし、私が担任を持つクラスと同じ学年ということもあり、ほとんどの生徒の顔と名前を覚えているという私にとってかなり馴染みの深いグループなのです。
7年生のときはあんなに幼顔だった子たちが本当に成長して、今年からGCSEだなんて、、、時が経つのは本当に早いものですね(どうりで私もこんなに歳をとるはずです)。
それにしてもこの今年歴史を選択した生徒達はしっかりと考える力を持ち、読み書き能力も高い頭の良い子ばかり。8年生、9年生のときはかなりおしゃべりでやんちゃな印象だった子、態度がかなり悪かった子も今日の授業では非常に落ち着いた様子。
選択科目のクラスのために同じ組の友達ばかりに囲まれているわけではないからか、それとも10年生になって精神的に大人になったのか。
とにかく、今日の授業は本当にスムーズに進行し、風刺画の解釈をする課題やディスカッション、その後にしたグループ課題も活気のあるものになりました。
教えているこちらも楽しみながらリズムで授業を進めることができて非常に嬉しかったです。生徒の反応も上々。久々に次の授業が待ち遠しくなるようなそんな達成感を味わいました。
思えば、私がGCSEを教え始めてから丸4年がたったわけで、この新しい10年生達はいわば私の5期生。
これから2年間、あきらめずに最後まで皆に頑張って欲しい、そう願っています。
August 28, 2008
それぞれの結果 其の弐
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先週に引き続き、GCSEの結果について。
私のクラスの他の生徒たちの結果はどうだったのか。
ほぼ予測したとおり、もしくは数人が私の予想を超えて良い結果に終わっていました。大体、私の学校ですとA-Cを取ることが目標なのですが、最後まで授業を受けていた大半がその目標を到達したので嬉しかったです。
でも、途中から諦めてしまってやる気をなくしてしまった生徒、最後の一ヶ月半、引き抜かれた生徒の結果はやはり良いとは言えないものでした。これに関しても予想とそれほど外れたわけではなかったので驚くこともあまり無かったのですが。
それでも心残りなことはありました。なんとかCを取りたいと言っていた生徒の一人がその目標に到達できなかったことです。
その子は読解や暗記など歴史に必要なスキルがなかなか伸びず、試験が不得意で一年目は授業中もあまり積極的ではありませんでした。それが二年目である11年生に入ってからは態度も落ち着き、目覚めたように歴史が好きになり頑張っていました。
明るくて、冗談が好きで、たまに素っ頓狂なことを言ってはクラスを笑わせるH。他の教科でも勉強はそんなに得意ではない彼女は、なんと昨年の夏学期のSchool production(生徒でおこなう舞台)であったミュージカルGreaseでは主役を務めたくらい演劇の才能があるのでした。
彼女は歴史を続けたい、せめてCを取りたいと思う反面、自分の能力に自信が無く、母親に「不得意ならやめて他の科目に集中しろ」といわれて益々落ち込んだり、一時は数学の補修クラスのほうに行ってしまって最後だけ歴史クラスに戻ってきたりと落ち着きませんでした。私は「ここ一年でたくさん成長した。努力は報われるはず。最後まで信じて続けるべき」と言い続けてきましたが、彼女自身、最後まで不安で迷っていたようでした。
教師として冷静に見たとき、確かに彼女は理解力、筆記力などCを取るのは難しいレベルにいました。私はそれでも彼女に歴史の勉強を続けて欲しいと願っていました。「あなたならCは絶対とれる」と確たる根拠も無いのに安易に言うことはできませんから、授業中にとにかく良いところを褒めて、試験問題のアドバイスも丁寧にやるくらいしか出来ませんでしたが。
なんとか復習を頑張って試験を受けた彼女。試験後に会った時に、彼女は思ったよりも出来た感触のあった自分にほっとしたと言っていたのですが。
この国の歴史試験では単純な選択式の問題は1つもありませんから、生徒の理解・読解力、暗記力、説明力、筆記力などの総合的な力が結果としてはっきりでてしまいます。まぐれが通用しないようになっているのです。
そして、いったん結果が出れば他の教科とあわせてAやA*がいくつ取れたかで結局のところ判断されてしまう厳しい現実が待っています。
それじゃあ、成績はなかなか伸びないけれど人一倍歴史が好きで理解しようと頑張る生徒はどうなるのか。もともとの能力はあるのに教科に積極的に取り組まず、努力しない生徒と向き合う授業よりHのような生徒たちがいてくれる授業のほうがどれほどやりがいのあるものか、、、。
でも、これが結局試験というものなのですね。なんというか、私自身、中高時代に歴史は大好きなのに暗記が不得意でテストの成績はいつもいまいちだったこともあり、彼女に自分の昔の姿を少し重ねていたこともあったのかもしれません。
さぁ、様々な生徒と出会い、喜び、葛藤した一年が今年も終わりました。私がもっといい教師、力のある教師であったのなら生徒たちももっと努力して、試験の結果も違っていたのではないか。そう思ってしまいそうな瞬間がありました。これは教師として人間として非常に怖い問いかけです。自分自身の教師としての自信を常に揺るがす可能性のある恐ろしい想像、、、。答えは誰にも分からない、でも完全に打ち消すことは難しい問いであります。
だからこそ、このときたま恐怖とも思える緊張感を頭の片隅に持ちながらこれからも前に進んで努力していかなくてはならないのだと思います。だって、ひとりひとりの可能性を最大限に伸ばす、生徒の興味を惹く力のある授業、やっぱりやりたいですから。そして、最後に満足そうな生徒の笑顔を見たいですから。
長い長い教師の道のり。これからもずっとこれが私の課題です。
August 26, 2008
それぞれの結果 其の壱
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8月21日はセカンダリースクールで教えている教師たちにとって特別な日でした。
6月・7月に11年生が受けたGCSE試験の結果発表の日だったのです。
もちろん、ここはイギリス。ホリデーでどこかに行っている同僚も多いでしょうし、わざわざ学校に出向いて結果を確認する教師はそんなにいないのですが。かくいう私も去年は日本にいて、結果を知ったのは9月に入ってからでした。
でも今年の夏はロンドンで過ごしたこともあり、この日が近づくにつれ気になること気になること。今年のクラスは人数も例年より少なかったので一人一人に思い入れがあるというか、彼らの成長(または退化?)をつぶさに見てきたこともあり、結果は非常に気になるところでした。
また、試験の一ヶ月半前には今年の11年生の模擬試験の主要科目である数学の成績の悪さ、夏の本試験への影響を懸念した学校の上層部が急遽、私の歴史クラスや他の非主要科目の授業から数人を引き抜いて数学の補修クラスへの参加を強制するなど、ごたごたのあった年でもありました。
それなのに最後はほとんど無勉強な状態にもかかわらず、彼女らは結局歴史の試験を受けさせられる形になり、なんというか上層部のお粗末な対応を見たのでした。
主要科目の成績は学校のランキングに直接影響を与えるので彼らが焦った気持ちはわかりますが、もうちょっと早くからのフォローは出来なかったのでしょうか。
このような歴史科目を非常に下に見るような扱いに私たち歴史教員は相当な不満であり、生徒からもこの対応に疑問を持つ声があったのですが結局は上層部の決断が通りました。
すごく正直に言って、選ばれた数人のほとんどが普段も素行が悪く、授業態度も他の生徒に悪影響を与える側面もあったので彼女らのいない授業は格段にやりやすかったのは事実なのですが、、、。
否が応でも結果は出てしまう訳で、不安な思いを持ちつつ私は当日に学校に向かったのでした。そしたら、学校まであと3分というところで遠くから「Miss ○○○(私の名前)」と呼ぶ声が。
試験結果を貰った帰り道であるらしい生徒Fです。彼女は本当に努力家。でもその努力を苦労ととらえず常に積極的なのが彼女の素晴らしさ。
でも同時に教師への要求は高く、授業中にわからないところはすぐに聞いてくるし、試験問題を授業中に出せばすぐにチェックするように私に頼んでくる子です。まさに生徒の鑑なのですが私をなかなか休ませてくれません(笑)
クラスで一番模擬試験の結果もよく、間違いなくグレードA(最高はA*-エイスター)は取れると思っていたのですが、、、。そんな彼女、私のところへ駆け寄ってきて、なんと開口一番に「信じられない、Bを取ってしまった!」と。
試験の感触も良かったと言っていただけに私も驚き、彼女が「納得できない。再採点してもらいたい」と言うので一緒に試験関係の事務を総括する同僚Mのもとへ。
一緒に試験結果を分析してみると、なんと、彼女は少しの差でグレードAを逃していたことがわかりました。
グレード(A*からGまで)は、二つの歴史試験(一つは史料解釈、もう一つは主に自己の知識を基にエッセーを書く問題)、そして二つのコースワーク(学習課題)のそれぞれの結果を基に特殊な方法で算出された点数によって決まるのですが、彼女の場合、それがAを貰うには1点足りなかったのです。
史料解釈の試験で点数が伸びなかったのが明らかな原因ですが、何しろ全て筆記試験。採点基準は同じものの試験管によって点数のばらつきがあるのは事実です。もし、最採点をリクエストすれば4-5点でも伸びることはあります。もちろん、点を減らされる危険性もあるのですが。
話し合った結果、彼女もそのリスクを理解した上で、それでも点が増えることに賭けたいというのでこの試験だけ彼女の解答の再採点を申請しました。
さぁ、これが吉とでるか凶とでるか、、、それでもBを取れることはまず間違いないのですが、なんとか彼女の努力が報われるような良い結果を祈るばかりです。
(他の子たちの結果については次週のブログで)
August 15, 2008
再挑戦。
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8月も半ばになり、夏休みに入って少しずつ進めていた9月からの新しいカリキュラムの準備も本腰を入れて取り掛からなければと思う日々。
教師になってから4度目の夏休み。毎回夏休みが来るたびに「この時間を上手に使わなければ」と思いつつ、どうも自分が向上しているように思えません、、、。
普段は学校のタイムテーブルに沿って日中を過ごしているせいか、休日になるとその反動で全く区切りのない生活になってしまうのです。まぁ、これは言い訳に過ぎず、元来のぐーたらな性格が出てしまうのでしょうね。
今年は日本から来た身内が私のフラットに泊まっていたりといつもと違う夏休みではあるのですが、毎日一緒に出かけることはないので予定の無い日はついついだらだらしてしまいます。
時間の制限も無いとどうも仕事もはかどらず。逆に一回仕事をやりだすと7時間でも8時間でもご飯も食べずに座りっぱなし、、、。規律もなにもあったものではありません。
実はそんなだらだら生活を送る自分が嫌でこの夏始めたことがあります。
それはピアノ。
ただ、ピアノを習うのは初めてではありません。幼稚園のころから6年ほど習っていました。ところが始めてから数年後、当時習っていた先生が結婚を機に個人の教室をやめてしまったのです。
その先生のレッスンはピアノの練習だけでなく、連弾をしたり歌も歌わせてくれて、子供心に非常に楽しいものでした。
その後、某チェーンのピアノ教室に通うことになり、そのあたりから私の「ピアノ嫌々やる病」がでたように思います。
思えばその時の先生にとって私はいかにもやる気のない、教えがいのない生徒No.1だったことでしょう。だって、練習がつらくても上達しよう、頑張ろうという前向きな気持ちがなかったのですから。
自分も今は教師だからわかりますが、子供って自分の興味があることに本当に情熱を持って取り組めるものなんです。目の輝きや好奇心が違います。ほんとに飛びついてくる感じなのです。
逆に興味を持てないものは苦痛以外の何物でもないんですね、、、。7年生ですともともと好奇心旺盛なのですが、思春期真っ盛りの9年生くらいになると興味が無いと面白いほど態度にでるというか。
まぁ、興味がそれほど無くてもじっとこらえて学ぶか、教室で自分のやりたい放題やるかはその子次第なのですが。特に私の学校の子供は真っ正直というか。とはいえ、最初は興味の無い子を引き込むような授業をするのが私の役目で教師の力量が出る部分なのですが。これについてはまだ私は恥ずかしながら試行錯誤状態であります。
さて、本題のピアノ。
以前書いたコーラスのように長年やりたくてもやる機会にめぐり合わなかった分野でありました。
それがやっと出張ではなく自宅で教えていただける先生を見つけ、ついこの間初めてのレッスンに行ってきたのです。
住んでいるフラットにピアノがない私にとって自宅でやってくださる人は貴重です。ロンドンでもセンターからアクセスできる場所ですと住宅事情で自宅でのレッスンが出来る先生はそういませんので。
ほぼ18年ぶりのピアノレッスン。自分で驚くほどかちこちに緊張していましたが、これほど楽譜を眺めて自分で鍵盤を叩くのが面白いものなのかと感動しました。弾ける曲はきっと小学生レベルなのですが。
指練習もひとつひとつの記号も今見ると非常に意味のあるもの、大切なこととして捉えられるのです。当時は嫌々練習し覚えていたのに。不思議ですね。
ピアノに向かいながら私は一生懸命小学校の頃の自分と向き合おうとしていたように思います。どんな気持ちだったか、どんな風に弾いていたのか、、、。
レッスンと自己練習を重ねると感覚も少しずつ戻ってきます。そして嬉しいことに昔は意識をしたことの無かった「曲を自分のものにしていく、感情をこめて、イメージを作り上げて弾いていく」喜びを感じています。先生は大人のピアノはこれが大切なのだといいます。
今までこんなにブランクを空けてしまった自分に後悔する気持ちがありましたが、こうして10何年も経って再挑戦できること、新鮮な気持ちで自発的にピアノに向き合うことができたことは本当に良かったと思います。
で、家にピアノが無い私がどうやって練習しているかというと、、、。
ここぞとばかりに学校に勤めている特権を活かして夏休みの音楽室に忍び込んでせっせと練習している次第です。
August 08, 2008
You either see it or you don't
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今日は不思議な体験をしてきました。
9月から東ロンドンの歴史を授業のカリキュラムに大幅に取り入れることにしたので、ここ数ヶ月私も色々と勉強しているのですが、たまたま日本から訪ねてきた親戚に「昔をそのまま再現した家がロンドンのLiverpool Street駅の近くにある」と聞き、一緒に行くことにしたのです。
Liverpool Streetといえば、現在はオフィスが立ち並ぶビジネスマンの街。隣のエリアであるOld StreetやShoreditchは若者に人気のナイトスポットですが、Liverpool StreetというとSpitalfieldsマーケット以外には観光客が特に訪れるような場所もないと思っていました。
訪れた場所の名前はDennis Severs’ House。Dennis Seversはアメリカからロンドンに渡ってきた芸術家で、1960-70年代にはかなり荒廃していたSpitalfieldsエリアの一角、Folgate Streetにある家を買って移り住みました。
やがて彼はその家の一つ一つの部屋を18世紀から19世紀の各時代の特徴を忠実に再現するように調度をそろえて改築していったのです。
現在、前もって予約をして月曜の夜にこの家を訪れると、ろうそくの光だけで家の中を自由に歩き回ることが出来ます。ただし、いったん家に入ったら誰とも口を利いてはいけません。そして、家の中にあるものに絶対に触ってはいけないのです。
この家を1つの作品とみなしていたSeversは、フランスから宗教迫害を逃れてやってきたプロテスタント(ユグノー)であるJervisという架空の家族を創り上げてその家に住まわせました。つまり、まるで各部屋にそのJervisファミリーが今でも住んでいるかのように表現したのです。
まず、家に入ると一階の居間に入ります。ろうそくに照らされた薄暗い部屋の中で、鳥かごには本物の鳥が羽を休ませており、テーブルには直前まで人がいたような跡が、、、。どこからともなく、床がきしむ音、人がしゃべっている音まで聞こえてきます。
そして、地下の部屋に下りると18世紀に時代設定されており、Jervisファミリーがユグノーとしてイギリスに渡ってきた当初の生活の様子がそのキッチンから垣間見られます。
暖炉には本物の火がはいっており、水周りには料理をしている跡が。テーブルにも新鮮な野菜や果物が置かれています。
そこから時代は19世紀へ。SeversのストーリーではJervisファミリーは絹織物のビジネスが軌道に乗り、生活もかなり豊かになります。2階付近の部屋はそんな19世紀の彼らの生活が反映され、地下と1階とは全く違う、立派な調度で部屋が調えられています。
私が部屋に入る直前までJervis夫人が朝ごはんを食べていたのでしょうか。ベッドの上のシーツは乱れ、ベッドサイドにはなんと食べかけのトーストと入れられてからそう時間の経っていないコーヒーが置かれたテーブルがありました。本当にコーヒーの香りが部屋に漂っているのです。
まぁ、これにはここの職員さんたちが直前までセッティングしていたのを私が一瞬見てしまったという残念な経緯があったのですが。
このような感じで、この家にあるものすべてがその家に生活する人々と繋がっており、普通の博物館と違ってそこら中に説明書きがあるのではないのです。テーブルにおいてある手紙、壁に張ってある写真、数あるアンティーク、360度、いたるところにヒントが隠されているのです。
訪れた人々は自分の想像力、視覚、そして嗅覚、すべての感覚を頼りに部屋の中を観察しながら当時の様子を探り、そしてそこにいた(Seversによると「今もいる」)人々と実際に会うことはないものの、ある意味コミュニケーションをとるわけなのです。
ですから、この家のモットーはタイトルに書いたように「You either see it or you don’t」。自分でこの家のストーリーに引き込まれなければ何も見えてこないわけです。まるで実物大のロールプレイングですね(まぁ、我々は傍観者ですが)。
残念ながらDennis Seversは1999年に亡くなりましたが、生前は彼自身がツアーのガイド役となってJervisファミリーの歴史を話していたようです。私も彼の案内で部屋をめぐりたかったです。
以前にも書いたとおり、このSpitalfieldsはユグノー、ユダヤ教徒、そしてバングラデッシュ人とロンドンの移民たちの玄関口となった地域で非常に歴史のある地域です。でも再開発が進む中、なかなか250年もの歴史をそのまま残す建物は少ないのです。
そんな時代だからこそ、その地域にこんな素晴らしいタイムカプセルを残してくれたSeversには本当に感謝したい気持ちでいっぱいです。
皆さんにも機会があったらぜひ訪れて欲しい、そんな不思議で素敵な場所でした。
August 02, 2008
昼の顔 夜の顔
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今回は教師生活に関係あるような無いような話をひとつ。
実は夏休み二週目に入った今日、南ロンドンのBrixtonというところへ行って来ました。
かつてはかなり治安の悪い地域として有名でしたが、ここ数年はだいぶ街も綺麗になり、犯罪率も以前よりは低くなったとのこと。とはいえ、東ロンドンに住んでいる私は普段全く行く機会の無い場所です。
では何で今日そんなところへ?しかも、夜の7時に、、、?
実は、同僚のTがBrixtonの駅の近くにある某チェーン系のジムでエクササイズクラスを教えていて、そのクラスに無料で参加させてもらえるというので行ってきたのです。
同僚Tは私の学校で心理学や宗教学を教える白人サウスアフリカ人。すごーくスタイルが良くて、無駄な脂肪が一切見当たりません。
それもそのはず、彼女の趣味は水泳。仕事が終わってからもしょっちゅう泳ぎに行っているようです。仕事帰りにチップス買っちゃう私とは大違いですね、、、。
そんな彼女がジムで教えていると私が知ると、私が今まで出会った教師で間違いなく一番心が綺麗で優しい同僚Tは「月子も今度ぜひいらっしゃい」とたぶん一年くらい度々誘ってくれていました。
でも実際、平日の仕事帰りに南ロンドンまで行く気力がなく、その好意に甘えることもなかったのですが、夏休みにも入って余裕が出来た私は今回思い切って行ってみることにしたのです。
「ヨガとストレッチを取り入れて音楽に合わせて体を動かす気持ちのいいプログラムよ」と言っていた彼女。
ヨガは好きだし、動きもゆっくりなので私でもいける、、、と思っていたのですが。
感想:スーパーハード。
最初の20分は体を温めて代謝を上げるためなのか、テンポの速い音楽に合わせてまるでエアロビのよう。そして、その後もヒップと腿にかなりくるつらーいつらーいエクササイズの連続。
体の硬い私はほんとに無駄のないしなやかな動きの彼女に合わせてついていこう必死だったのですが、鏡に映る自分は彼女の半分も体を伸ばせていないという情けなさ。1時間のエクササイズの後は足がへろへろで、明日が真剣に怖いです。
それにしても、同僚T、心理学という非常に難しい学問を教えられる上に、こんな才能(でもこれはもちろん彼女の努力の賜物でもあるのでしょうが)もあるなんて感動ひとしきりでした。
自分が汗だくになって必死になっているところを見られるのは相当に恥ずかしいものでしたが、それ以上に同僚の仕事以外での姿を見るのは本当に不思議で嬉しいものでした。
ちなみに面白いことに彼女が指導する姿はやっぱり学校で教壇に立つ彼女そのもの。なんというか、エクササイズに来ているのは全員大人なんですが、彼女の話しかけ方、声の調子が学校の生徒に話しかけている教師なんですね。
まぁ、彼女の場合、普段も物腰が柔らかで生徒に対しても本当に穏やかで丁寧なので余計にそう思えたのかもしれませんが。
私も趣味のグループの主催者として参加者に色々と指示を出すことがあるんですけど、「やっぱり教師だねぇ」と言われます。本人自覚は全く無いのですが、やっぱりそういうのあるんですね。
July 25, 2008
Empty Desk
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火曜日で無事に今年度が終了しました。
午前中は終業式で学習態度、生活態度など様々な条件に照らし合わせて各教科や学年から選ばれた生徒たちを賞を授与するセレモニーがあり、生徒は終了後帰宅。午後はスタッフのお別れ会、そしてその後、校庭でスタッフの食事会がありました。
ロンドンの都市部の学校では普通かと思いますが、毎年、というか毎学期、スタッフの入れ替わりがかなり頻繁にあります。
産休・育休に入る教師、戻ってくる教師、そして新しい職を得て去っていく教師、新しく採用されて働き始める教師(常勤・非常勤を含め)など、常に人の動きがあります。
特に学年度の終わりに合わせて学校を離れる教師は毎年多く、今年も少なくとも常勤教師5人、短期の契約で働いていた教師も数人、去ることになりました。
そのうちの3人が実は私のFaculty(学部)からで、1人は今までも何度も私のブログに登場してきたHead of Facultyである同僚Kです。
同僚Kは過去ブログ「嬉しくも悲しいニュース」で書いたとおり、私の直属の上司であり、私がこの学校に採用されてからの4年間、常に私の一番身近な指導員そして同僚でした。
その彼女が結婚してロンドンを離れるため、それを機に退職することになったのです。
それを知ったのが3月の初め、それから約5ヶ月、実感の涌かないまま時は過ぎ、気がつけば今年度も残りわずか。そして、ついに同僚Kが私の学校から去る時が来たのでした。
スタッフの送別会では離職する教師に向けて校長がひとりひとりの功績や功労を称えた後、各学部・学科の同僚たちがスピーチを行い、プレゼントやカードが手渡されます。
同僚Kには同僚M(同じく歴史教師で私と一緒に学科主任をしている)と同僚L(宗教、社会学の教師)が合同でスピーチをおこない、その後、同僚Kもスピーチをおこないました。
実は彼女、今回離職する先生の中では一番勤続年数が多く、7年でした。ロンドンでは1,2年で違う学校に自ら移る先生が多いので彼女は長いほうなのです。
その7年間の思い出を語りつつ、彼女はHumanities Facultyの一人ひとりに向けてメッセージをくれました。
彼女のいった言葉、一生忘れられない本当に嬉しいものでした。
「Mと月子(←もちろん実際は本名で)、あなたたちは教師暦は二人合わせても私のより短いけれど、私に歴史教育って本当は何なのか、よい歴史教員になるってどういうことなのか、たくさん教えてくれたのはあなたたちです」
歴史教育はここ5-6年でも教育理念そのものやITなどの技術面の変化に影響され、大きく変わった部分がありました。私もMも割りと最近教職トレーニングを受けた方なので、同僚Kよりもこの流れに乗りやすかったのだと思います。
同僚Kはいつも私の教材や授業案を高く評価してくれていたのでそれが私の励みでもありました。なにせ、生徒指導の面ではいつも威厳に満ちた同僚Kには頭が上がらず、彼女に相談したりして頼ることが多かったのです。
歴史科は教師がもともと少ないので常に私たち3人は上司と部下、先輩と後輩の枠を超えて新しいアイディアを出し合ったりしながら進んできました。一方通行ではない対等な関係が築けたことは本当に幸いでした。そして彼女のスピーチは私を教師というプロフェッショナルとしてそして一個人としても評価してくれたようで嬉しかったのです。
木曜日、学期は終了し夏休みに入ったものの、同僚Kが自分の机や教室を片付けに出てくるというので、私も9月からの準備をしに学校に出ることにしました。これが彼女の契約上での最後の日なのです。
どんどん彼女の机から物が消え、目の前に貼っていた色とりどりのポストカードも剥がされ、しまいには後任者であるOへ引き継ぐファイルだけが寂しく机に残されました。
そして学校が閉められる午後5時、本当に彼女にお別れを言う時がやってきました。笑って「幸せにね。さようなら。また会おうね」と言おうと思っていたのに、ハグした瞬間にやっぱり感情がこみ上げてきて涙が出てしまいました。
思えば、仕事でつらかった時、私の日本にいる身内の病気が分かって動揺していた時など様々な場面で話を聞いてくれてアドバイスをくれたのは彼女でした。
普段はあまり感情を表に出さない同僚Kは周りにわりとクールだと見られがちなのですが、本当はとても温かい人なのだと私は知っていました。その時々のことがいっぺんに頭の中をめぐり胸が熱くなりました。
「やぁねぇ、あなたに泣かせられちゃったわ」と見ると彼女の目にも涙が。
感動的な別れでした。
またいつか会える日があるとは思いますが、もう彼女が学校に来ることは無いのです。
、、、本当に寂しくなります。
July 19, 2008
Japanese Experience
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先週の火曜日はHumanities Faculty(宗教、社会学、歴史、地理などの教科が集まる人文学部)の同僚たちと一緒に夕ご飯を食べに行きました。
大体一学期に一回のペースでそういう企画があるのですが、今回は学年末、しかもうちの学部から3人も教師がいなくなるので、そのお別れ会も兼ねて。学校全体で行う正式なお別れ会もかねた食事会は来週火曜ですが。
さて、どこに行こうかと話し合い始めたのが2-3週間前。今まで行ったのはポルトガル風炭火チキンのチェーン店、中華料理屋2軒、インドなど中央アジア料理屋4軒(そのうち一軒はバングラデッシュ系の同僚たちが絶賛し、行列が出来る東ロンドンの隠れた名店)。
やっぱり地域性でインド料理系が多いです。それから、Lime Houseという駅の近くにある中華料理屋は同僚に人気で2-3回行ったでしょうか。
で、今回は、バングラデッシュ系の同僚たちの希望で「カレー以外のもの」となったため、じゃあ、また中華になりそうだったのですが、同僚の一人が「Japaneseは?」と言い出しました。
実は学校の最寄り駅のすぐ近くに日本食レストランがあるんです。ただ、そこのレストランは夜の6時じゃないとオープンしない。私の同僚は宗教だけでなく様々な理由でお酒を全く飲まない人が多いので、開店時間になるまでパブで飲んでようということも無い。さらにもともと早く帰りたい派が多いので、その日本食レストランは自然却下され続けてきました。
私もずっとその存在は知っていたのですが、どうもプライベートでわざわざそのレストランに行くのは学校にも近いし躊躇われ、行くことのないまま4年が過ぎていました。
それが今回、驚くことに「たまには遅くからでも(っていっても6時なんですけど)いいじゃない」とみんなの意見が珍しく一致し(なかなか個性派集団なので)、めでたく日本食レストラン行きが決定いたしました。
実は一人を除いて私の同僚たちはほとんど日本食を食べたことがありません。知っている食べ物はSushiくらい。たぶん日本食と中華料理の違いも知らないし考えたこともないはず。
当日、レストランに到着後、メニューを眺める同僚たち。、、、1分後(いや、30秒後?)、気がつけば「あなたが頼りよ」的な目線が私に集中。
まず、メニューの先頭にあったGunkan MakiとHosomaki、Temaki、Nigiriの違いは何か?という質問に始まり、この魚は英語で何か、材料には何が使われているのかと質問攻撃。
「軍艦巻きは形が軍艦に似ているから、、、」と説明しておいて、「そっかぁ、そうだったよね」と心の中で自分でも妙に納得。日本をほとんど知らない人に私の限りある知識を総動員して日本食指南。心の中で結構あせる自分がいました。
でも、さすがロンドンの日本食レストラン、スタッフはたぶん一人を除いて全員中国系の人。そして、豊富なメニューの中にはチャーハン、餃子、キムチなど、日本でも広く食べられてはいるけど厳密には日本食でないものが並んでいました。なかには聞いたことも無いものが並んでいたのでこれにはさすがに「日本でも食べたことが無い」と強調しておきました。
さてさて、20分後くらいにやっと、皆それぞれ食べたいものが決まり、それから前菜として頼んだ寿司(←こういう頼み方がすでに日本じゃないですよね)やら餃子やら枝豆を頬張って待つこと、数十分、みんなのメインディッシュが到着。
私が頼んだのは天麩羅弁当。なぜかイギリスでは日本でいういわゆる○○御膳みたいなセットものが「○○Bento」として一般に認識されています。味噌汁が付いて、大きなお弁当箱にご飯、サラダ、小鉢系のもの、メインのおかずが入っているようなものです。
一応、同僚にはこれを薦めておいたので、何人かはBentoを注文。ほかにはラーメン、チャーハン、焼きうどん、中華丼を頼んでいる同僚がいました。日本だと町の食堂かラーメン屋に出てきそうな内容ですよね。でも、よっぽど日本人しか行かないレストランではないと日本食レストランってこんな感じが結構多くて、みんなが頼むのもこういう系が多いのです。
で、肝心なお味はというと、、、。
うーん、天麩羅はいまいちでした。すごく正直に言ってしまえば、私でもこれくらい作れると思ってしまう感じ。そして、普段から大抵のものを心から美味しいと思える大食いの私でも、特にだめだったのが白ご飯でした。水気が多くて粒がぐちゃぐちゃにくっついているような感じなのです。
決して食べれないものではないんです。ほら、お腹のすいている私の胃袋にはしっかりとおさまりましたから。
ここはロンドンだということもわかっているのです。でも、私は心の中でかなりがっかりしてしまいました。最初に頼んだお寿司はロンドンの基準で普通に美味しかったのですけれどね。
同僚は皆「うんうん、結構おいしいよ!」と言っています。まぁ、反応が微妙な人もいたので両手を挙げて美味しいとはたぶん思わなかったのでしょう。唯一チャーハンを頼んだ同僚二人があまりの脂っこさにはっきりと不満を言っていたので、味見させてもらったら皿の底の方は本当にご飯が油がびしょびしょ。これについては私もすかさず同意。
でも、他の楽しんでいる同僚にはどうしてもわざわざ「あんまりおいしくない」「これは日本だったらねぇ」などと言えず、しかもあの場で日本食について講釈を垂れるような身分でもないと思い、ひたすら黙っていた私でした。
真の日本食伝道師にはなれそうもない私です。同僚たちとの初Japanese Experience…まぁ、おしゃべりできて楽しんだから良しとしますか!
July 11, 2008
東ロンドン再発見
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今日のブログは先週の予告どおり、東ロンドンの歴史についてです。
ロンドンに住んでいる皆さんはEast Londonにどのようなイメージをもっていらっしゃるでしょうか。
東ロンドンといってもBankやLiverpool Street、Tower Hill、Monumentといった駅の周辺はロンドンの金融の中心地ということもあり、常にスーツを着たビジネスマンで賑わっていますが、それよりも東にあるAldgate East、Whitechapel、Mile End,そして私の学校のあるBowという地域はどうも「労働者階級・低所得者層の居住地域」「犯罪多発地帯」というイメージが強いように思います。
実際、この地域はTower Hamletsという行政区で統計上、ベネフィットをもらって生活している低所得者が多いのは事実ですが。西ロンドンで生まれ育ったイギリス人の友人の中には「東は怖いイメージがある、できれば住みたくない」という人も結構います。
確かに東ロンドンは再開発が進んでいるとはいえ、殺伐・雑然とした雰囲気のある通りが今も多くあります。過去数百年の歴史を見ても、政府からは見放されがちな低賃金労働者の住む貧しい地域でありましたし、住環境も恵まれないものでした。
昔は重要な交通網であったテムズ川や運河が多くある東ロンドンは工場や船着場が多くあった場所であり、第一次世界大戦ではドイツ軍による空襲で一番大きな被害を受けた地域でもあります。そのため、ロンドン中心地や西ロンドンのようにしっかりと手入れをされてきた古く歴史のある邸宅が立ち並ぶという風景も限られています。
しかし、昔の面影を残すものは少なくても歴史を紐解くと東ロンドンは非常に興味深い地域であることがわかります。テムズ川にも近いAldgate East周辺は常に移民の玄関口だった地域であり、ロンドンが現在のように多文化・多宗教・多民族の都市となったルーツを探ることが出来ます。
その一番良い例がBrick Lane。カレー屋さんやナイトクラブ、バーに行くために訪れたことのある人は多いかと思います。今ではすっかりバングラデッシュ移民が経営するカレー屋の立ち並ぶバングラタウンとしてのイメージが定着しました。
それに加え、ここ10年くらいでは若いアーティストたちの活動の中心地としてたくさんの若者が暮らし集うようになりましたが、驚くことに19世紀後半から20世紀初頭までは人口の90パーセントがユダヤ人という地域でした。
さらに歴史をさかのぼれば、17世紀にフランスから宗教弾圧を逃れてきたプロテスタントのThe Huguenots(ユーグノー)たちが移住してきた地域であることが今も残る通りの名前や教会など建物の様子から分かります。かつては彼らがフランスから持ち込んだ絹織物産業の中心地でした。その産業に惹かれ、ユダヤ人、アイルランドや北イングランドからも織物職人たちが移り住んだこともあったということです。
そして、19世紀後半にはロシアから宗教弾圧を逃れてやってきたユダヤ人の移住がピークに達し、一時は150ものシナゴーグが東ロンドンにはあったということです。その歴史の変遷を象徴するユニークな建物が今でもブリックレーンに残っています。何と、もともとユーグノーの建てた教会が後にユダヤ人によってシナゴーグに変えられ、ユダヤ人たちが東ロンドンを去ってからはモスクとして使われるようになったのです。東ロンドンの移民の歴史の縮図ですね。
その後、絹織物産業が廃れるとともにこの地域も廃れ、小さな織物産業は存続したものの、産業革命時代の終わり、19世紀後半までには犯罪、売春、貧困の巣窟となってしまったのです。コレラがロンドンを襲ったときも真っ先に伝染したのが劣悪な居住環境だったこの地域でした。切り裂きジャック(Jack the Ripper)の話を読んだことがある人は当時の雰囲気がつかめるのではと思います。
第二次世界大戦後、ユダヤ人たちはロンドンの北部に多く住むようになり、この地域には徐々にバングラデッシュ移民が住むようになりました(戦前でもバングラデッシュ人の若い船乗りたちの小さなコミュニティは存在していたようですが)。
さらに1960年ごろからバングラデッシュからの移民の数が増えはじめ、1971年のバングラデッシュ(かつての東パキスタン)独立戦争後にはさらに難民・移民として移り住む家族が急激に増えました。私の学校の生徒たちはほとんどが二世・三世。彼らの子供・孫の世代にあたるわけです。
今日の東ロンドンは活気にあふれています。ここ数年、SpitalfieldsやAldgate East周辺もだいぶ変わりました。Shorditchというエリアにいたっては若者に非常に人気のあるおしゃれなエリアになりつつあります。
かつてユーグノーやユダヤ人たちが住んでいた荒れ果てた多くの建物は内部が改装され高級なフラットに様変わりし、おしゃれなレストランやカフェが増えました。駅周辺もオリンピックが2012年に来ることもあり、再開発が急ピッチで進んでいます。
古いものがある。古いものが見直され、形を変えてまた蘇る。そして、新しいものが生まれる-今、変化の真っ只中にある東ロンドンは他の地域と比べても本当に面白い地域なのです。
皆さんも機会があったら訪れて欲しいと思います。そして、時間をかけて東ロンドンの過去と現在を堪能して欲しいと思います(下記のサイトが参考になります)。
http://exploringeastlondon.co.uk/Spitalfields/Spitalfields.htm
July 05, 2008
ハイテクたんけんぼくのまち
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今週の火曜日は勤務校でCitizenship Afternoonと称するイベントがありました。
イギリスでは国そして国を越えて地球社会の一員としての自覚を高めよう、政治・健康・環境などに関連した知識やスキルを身につけようという趣旨でおこなわれているCitizenship教育。
うちの学校でもTheme Day(今年は半日でしたが)のひとつとしてGlobal musicやPainting Environmental Bags、Global cookingなどCitizenshipに関連したワークショップ、校外学習(博物館見学なども含む)を含む数あるオプションから生徒自身が興味のあるものを選び参加する特別なイベントを去年から年に一回おこなっているのです。
私はここ数ヶ月、Local History(地域の歴史)に関連した7年生10数名が参加しているプロジェクトに関わっているのですが、今回もCitizenship Afternoonに合わせてそのプロジェクトのリーダーである同僚Jが計画したA Global Boroughという地域の歴史を学ぶツアーに参加することにしました。
このツアーは、イギリスの観光局公認の資格を持っているガイドさんと一緒に東ロンドンのAldgate EastやSpitalfields周辺を歩いて、そこに残っている古い建造物を訪ねながら東ロンドンの歴史を学び、東ロンドンを再発見しようというものです。
私の学校の生徒はほとんどがバングラデッシュ系のイギリス人。生まれや育ちも東ロンドン、特にBow, Stepney,Mile Endといったエリアなのです。でも、彼女らは自分たちの住む地域がどういう変遷を遂げてきたのかをほとんど知りません。彼女たちが生まれたときからすでにこの地域は人口のほとんどがアジア人というコミュニティですから。
今まで4年もこの学校で教えてきた私も地域の歴史に目を向けることが少なかったので、今回このツアーに参加して生徒とともに本当にたくさんのことを学びました。
あっ、次回のブログではぜひ私が今回学んだ東ロンドンの歴史について書きたいと思います。みなさんもきっと東ロンドンを今までとは違った感覚で見れるようになるのではないかと思います。
ちなみに今回のツアーで特別だったこと。企画者の同僚JはICT(日本でいうと情報処理という教科でしょうか)の教師で、私たちのために今回のツアーに学校が所有するHandheld PC(手のひらサイズの小さなコンピューター端末機)を持ってきてくれました。
生徒や教師の私たち一人ひとりに手渡されたPC。これを使って地図を見たり、GPSで現在地を確認したりできます。さらには内蔵されているソフトを使ってメモを取ったり、これまた内臓のカメラで写真を撮ったりとなかなかハイテク。私が中学生の頃はコンパクトでハイテクなモノといえばポケットベルやCDウオークマンくらいだったのに、、、。
さすが多機能な携帯やPCを使い慣れている現代っ子の私の生徒たち、短時間で見事Handheld PCを使いこないしていました。
技術的にも内容的にも、まさに「Eye-opening」な午後でした。
June 27, 2008
Freaky Fridays
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今日は週の半ばにもかかわらず教職員の研修日でした。
つまり、生徒にとっては学校はお休みで(といっても何かの用事で来ている生徒はちらほら)、校内には基本的に教師と事務員だけ。
うちの学校の本校舎は廊下が3階まで吹き抜けになっており、まるでドラマのPrison Breakに出てくる刑務所のような作りで(ってわかるでしょうか?)普段は生徒の声ががんがん響くのですが、今日は本当に静か。
こういった校内研修日は毎年数回あります。今年は特に9月から改正された中学生とA-levelの学習指導要領が導入されるため、それに備えて新しい指導案や教材作りが進められており、先月に続いて2回目の準備日でもありました。
そして、もうひとつの目的は「Flexible Fridays」の計画。
9月から7年生に実験的に導入される企画で、毎週金曜日の半日(150分)を使って、生徒たちが普通授業から離れてプロジェクトワークをおこなうというものです。
大体240人ほどいる7年生の生徒たちは20人くらいのクラスに分けられ、それぞれのクラスがオリンピック選手、East London の歴史、Script writing(脚本を書くこと)、Healthy fun foodなど6つの違ったテーマを扱ったプロジェクトに参加します。
1つのプロジェクトの期間は6週間。1つのプロジェクトを終えると次のプロジェクトに参加するという仕組みで、一年後にはそれぞれの生徒たちが6つの全てのプロジェクトに参加したことになります。
さて、このプロジェクト、おもに二つの目的があります。一つ目は以前にも書いた「Learn to learn(学ぶために学ぶ)」、つまり子供が効果的に学習するための姿勢やスキルを学ぶ機会を与えること。そして二つ目は普通授業で個々の教科を単独に教えるだけではなくて、このプロジェクトを通して1つのテーマの中に色々な教科の要素があり、つながりがあるということを伝えようというものです。
例えば、歴史は地理や公民と切り離せないし、ディベートのしかた、研究の仕方、プレゼンテーションの仕方など学ぶべきスキルには共通点があります。そしてこれらの教科の理解を深めるには英語(こちらでは国語ですね)のスキルも必要、また、全ての教科の根底に多文化理解などの共通のテーマも存在します。
ただ、歴史を歴史として教えることは非常に大切であり、単なる子供の愛国心や市民育成の道具になってはならないというのが、歴史教育者の見解です。歴史を探求すること、探求するための理解やスキルを向上させること自体にちゃんとした意義があると信じるからです。
そのため、このプロジェクト導入がアナウンスされた当初は、それによって削られるであろう普通授業数とその影響への強い懸念がありました。現に歴史は二週間に与えられる授業数が150分から100分に削られてしまいます。うちの学科内でも「これでますます生徒の歴史や地理など人文学系の教科離れが進むのではないか」という批判がなされました。
とはいえ、学校がこういったプロジェクトを試験的にとはいえ導入することはすでに決められたことであり、私たち教員が決定を覆すことはできないのは事実。
「では、せめて歴史や地理特有の要素を強く持ったプロジェクトをせめて立てよう」
そういう思いで6つのプロジェクトの中のひとつは地元の歴史に焦点を当てたものになったのです。
私も一歴史教員として関わりたいと思いサポート員として関わることになったのですが、今日の会議では9月からはじまるというのにまだ各セッションの学習目標やトピックを決めた程度。
これから各セッションでどういう活動を生徒がするのかタスク設定をしたり、そこで使われる教材作りをするために我々教員が資料集めをしなくてはなりません。
骨のいる作業になりそうですが、関わった以上は何とか形にしなければなりません。
さて、この「Flexible Fridays」、このブログのタイトルでは「Freaky Fridays」となっていることに気づかれましたか?
実は同僚K(この間書いた、もうすぐ結婚を機に退職をする私の上司です)が文字ってこの企画をこう呼んでいるのです。
Freaky=Very strange, unusual、(日本語の辞書では)筋の通らぬ、風変わりな。
うちの学校はこういった企画が多数おこなわれるもののいまいち綿密な企画や準備が足りずに失敗に終わること多し。
「うーん、うまい!」
初めて聞いたとき、思わず感心してしまった私でした。でもこれからはこれに共感している場合ではないですね。
頑張らなければ、、、です。
June 22, 2008
Road to China
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先週、同僚Nから教員全員へメールが送られてきました。
9年生の生徒Mが今年の夏、テーブルテニスのトレーニングとオリンピック観戦のために3週間中国へ行くというのです。
実はこの同僚N、Greenhouse Schools Project という公立学校やコミュニティでのスポーツ振興を目的としたプログラムを提供しているチャリティ団体から派遣されているイギリスのテーブルテニスのプロなのです。
私の学校ではこのテーブルテニスの選手育成プログラムが去年からスタートし、希望者や教師から推薦された子供たちがプロのコーチである同僚Nからほぼ毎日トレーニングを受けているようです。
生徒Mも当然そのうちの一人。去年、全く初心者の状態ではじめたわけですが、今では何千人もの子供たちの間から選ばれた中国に派遣される28人のうちの1人になるくらい素晴らしいプレーヤーに成長したのです。
実際、この間の放課後、体育館を通りかかったときに彼女がコーチと練習しているのを見たのですが、思わず窓にへばりついて見てしまいました。だって、彼女のストロークをする姿、まるでプロ並みなのです。
私は自分でもテニスをやるので球技する人のフォームって気になるのですが、本当に彼女のフォームは美しかった。一年前に初心者だったころの彼女のプレイを覚えているだけに本当に感動でした。
さて、日本にいる皆さんは、コーチに習って学校でスポーツをすることがそんなわざわざプロジェクトになるような特別ですごいことなのかと思われるかもしれません。
実はイギリスの公立学校には日本のような部活動がありません。教師が有志でおこなっている同好会のような活動はあるのですが、日本のように毎日週末も休まず練習する姿が見られることはないのです。もちろん、学費が一年で百何十万もする良い私立校に行けば、テニスクラブやクリケットクラブなど普通にあるのかもしれませんが、、、。
今、子供の肥満が社会問題として取り上げられるイギリスでは、政府が子供たちの間にスポーツを振興させようと必死です。実際、10年生、11年生でも体育がGCSEの必修科目になったりと政策での変化はあるのですが、それも二週間に一回授業があれば良い方で、子供たちが運動をする機会はほぼ皆無です。
特に私の勤務校は校庭も狭く、体育も敷地内の体育館や校庭では場所が足らず、学校から10分ほど離れた公共のグラウンドを使わなくてはならないほどです。
それに、私の生徒が多く住む東ロンドンは都心に近いので幹線道路が多くあり、車の交通量も多く、また、犯罪率も高いので小さな子供が自分たちで安心して走り回って遊べる場所は少ないのです。
また、親が子供にスポーツをさせない傾向もあるように思います。特に私の学校はムスリム家庭が大半の女子校ですから、水泳やサッカーを娘にさせることに抵抗感を持っている親御さんが多いのも事実。
ちなみにスポーツをするときはヘッドスカーフを安全上外さなくてはならないのですが、それもスポーツを積極的にさせない要因になっているのかもしれません。
そういう事情もあって、このテーブルテニスプロジェクトは、普段スポーツをする機会のない子供たち、特に親の経済事情でスポーツを定期的にやりたくてもできないような子供たちにチャンスを与える良い機会なのです。
さて、生徒M、渡航・滞在費用はGreenhouse Schoolsが負担するものの、これから夏までの間に自分でもFund raising(募金活動)をしなくてはならないのだそうです。先日、私のところにも来たので、いつもは数ポンドで済ませてしまう私もお札を渡しました。
アフリカ系のイギリス人である彼女、中国へ行くことも、家族(特に彼女の妹は同じ学校の8年生、それも同じプロジェクトに参加しています)と離れて3週間過ごすことも、オリンピックゲームを見ることも全て初体験。
彼女にとってこの旅が素晴らしい思い出になること間違いありません。そして、彼女がイギリスの代表選手となるのもそう遠い未来ではないかもしれません。
「あぁ、私もそんな体験がしたかったなぁ」と大人気なくも14歳の彼女を羨ましく思ってしまう私でした。
June 12, 2008
チョコレートの国
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先週は、前回のブログに書いたように歴史旅行の引率で9年生とベルギーに行ってきました。
7時15分にコーチ(大型バス)に乗って出発し、Channel Tunnel のシャトル(ものすごく大きい電車に大型バスがそのまま載るのです)を利用してまずはフランスへ。そして、目的地のベルギーのフランダース地方へまた再びコーチにて向かいました。およそ3時間半くらいの旅だったでしょうか。
今回の旅の目的は第一次世界大戦の戦場をめぐることです。イギリス連邦やドイツ軍の戦没者墓地や保存されている塹壕、博物館などを訪ねます。
イギリスでは膨大な犠牲者が出た第一次世界大戦の追悼が大規模で、特に戦争が終結した11月11日に向けて毎年さまざまなイベントがあります。
その時期に限らず、大戦で亡くなった兵士たちの家族たちや退役軍人たちが年間を通してフランスやベルギーの墓地を訪れるようです。また、現役の兵士たちも軍教育の一環として戦場ツアーに参加することが必須だそうです。
私自身、このベルギー旅行は4年続けて参加していますが、墓地へ献花に訪れている人々を多く見かけてきました。
ちなみにいくら引率する私たちが歴史教師とはいえ、大戦の知識は限られますので、毎回知識豊富なツアーガイドさんに同行してもらっています。私たちがいつもお願いしているのは退役した元軍人の人たちなのですが、今年はなんと現役の軍人さんが担当になりました。
去年はアフガンで任務についていたそうですが、今年はイギリスで待機しており、副業として訓練中の兵士や学校向けのガイドの仕事を引き受けているそうです。
私も生徒も現役軍人と接するのは初めて。イギリスが現在関わっている戦役についてここで詳しく語るのは控えますが、とにかく彼は現在も軍事行動に関わっているわけです。
私自身、第二次世界大戦後、ベトナム戦争も幼少時に終結した世代に生まれた人間ですから、戦争というのはどうも本やテレビの向こう側という感覚が拭えません。それが今回、実際に戦場で自分の命を危険にさらしている人と接し、不思議な気持ちになりました。
たぶん彼は30代後半か40代だと思いますがとても明るい人で、生徒を自分の話に引き込むのが上手。今まで一番子供と接するのに慣れているガイドさんだったと思います。実際、戦闘に出たことのある人物の言葉は子供たちの心にもいつもより響いたようです。私たち教師は「来年もあの人にお願いしたい」と思ったほどです。
周りで人が怪我をし、死んでいく恐怖、悲しみについて、ちらりと語ってくれましたが、とても良かったのは彼よりもずっと若い部下が書いたという詩。
9年生も授業で第一次大戦中に兵士たちが書いた詩(War poem)を勉強しており、かつての兵士たちの気持ちと今も戦っている兵士たちの心の中にたくさんの共通点を見出したようです。
それからこのツアーの目的のひとつに、イギリス連邦のなかでもインドやカリビアンから戦場に送られた中央アジア人・アフロカリビアン、そして男性兵士だけでなく、看護師として戦場に赴いた女性たちについても学ぶこと、というのがあります。
私の学校の生徒は大半がバングラデッシュ系移民の子供たちですから、曾祖父の世代までたどればもちろんインドともつながりがあります。それでも第一次世界大戦が自分たちの祖先と関わっていることをなかなか実感する機会はありません。
どうしてもキリスト教、白人イギリス人の戦争というイメージを強く持っているようです。それがこの旅の中でイギリス軍にシーク教徒やイスラム教徒もいたことを発見し、驚きを隠せないようでした。
さて、ツアーの最後にはYpresという街を訪れます。生徒にとってはお待ちかねの自由行動の時間です。毎年街の中心にあるチョコレート屋に立ち寄って、それから一時間ほど生徒だけで買い物にいそしむのです。その間に私たちは近くのレストランで夕ご飯。
実はその街を訪れる理由は他にあります。そこにはイギリス連邦の兵たちを追悼する大きな門(Menin Gate)が立てられており、1929年から毎年ここで(ナチスドイツ軍が占領していた4年間を除いて)一日も途切れることなく午後8時から10分ほどの追悼式(The Last Post Ceremony)開かれています。
毎年私たちが訪れるときは生徒数人に代表になってもらい、儀式のなかで献花をおこなっています。他にも観光客やイギリス各地から訪れている退役軍人のグループでいつ訪れても人で溢れ返ります。
式が終わると帰りのシャトルに間に合うようにすぐにコーチで帰途へ。イギリスに戻り、学校へ到着したのは11時半ごろでした。全ての生徒が無事保護者に迎えられ帰宅の途についたころにはすでに12時近く。ずっと気を張っていて疲れましたが今回も無事に終わりました。
毎年同じ場所を訪れるとはいえ、参加する生徒も違うし、ガイドさんも変わるので私自身新しい発見が毎回あります。今回もとても充実した旅になりました。来年もまたどんな発見があるのか、、、楽しみです。
June 06, 2008
(Please)
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明日は早朝から9年生の歴史旅行の引率でベルギーに向かいます。
彼女らはちょうど今、第一次世界大戦について授業で学んでいる最中です。この旅行では、フランダース地方のtrench(塹壕)跡や、戦没者墓地、博物館を巡ったりします。
旅程表や大型バスの手配、ツアーガイドの手配などは完全に旅行会社にまかせるので楽なのですが、それ以外の準備は私が担当です。
今年は準備期間も一ヶ月しかなかったので、例年のように最初にある程度希望者を募るのではなく、一クラスから5人ほど選びました。来年、GCSEで歴史を選択した子、いつも授業で頑張っている子、最近、すごく伸びた子などを基準に選びました。
その後は、それぞれの生徒から保護者の許可証、Medical form(生徒の健康状態、疾患などを保護者が申告するための書類)を提出させ、旅行費用の生徒負担分である10ポンド(約二千円)を集金し、コピーをとるためにパスポートの回収します。
問題なく提出してくれた生徒はいいのですが、「親が許可をくれない」「パスポートが切れてていけない」「単に行きたくない」など、辞退する子供が10人ほど現れ、さらに困ったことに、その辞退した生徒たちのかわりに旅行に行きたいばかりに「Miss! Can I go? Can I go?」と毎日のように私に会いに来る生徒が続出。
私が担任として持ってるクラスの生徒Tもその一人。毎朝朝礼に来ると「Miss, is there any place left for the trip?」と聞いてきます。他にもうちのクラスに希望者は3人ほどいたのですが、その中でも彼女が一番積極的。
その時点では選ばれた生徒からの参加表明は全部そろってはいないものの、リスト上では空きのない状態。行けるよとは言えません。
しかも、そのTは過去3年間、度々その勝気な性格から喧嘩をしたり、授業中の教師への態度の悪さが問題になったりした生徒。
普段の授業で態度が悪かったりする生徒はもちろんかなりの注意を要する海外旅行へは連れて行けないので、どんなに本人が行きたいといってもどの子にチャンスをあげるのかは慎重に考えなくてはいけません。
ただ、この機会をあげることによって態度が好転したり、授業で頑張りだしたりする子がいるのも事実。Tも最近だいぶ成長して落ち着いてきたことに違いはないのですが。
そんな風に色々考えていた矢先、旅行に参加するはずだったうちのクラスの一人、Kがパスポートの期限が切れていることに気づいたため突如辞退しました。
さぁ、誰がかわりに行くのか。希望者の子供たち数人の目が急に輝きます。「放課後までには決めるからね。遅くとも明日の朝には教えてあげるね」とその場をおさめましたが、内心焦り。そう言った以上、私が決断しなくてはいけませんから。
結局、希望者の生徒たちの普段の態度、今まで参加した旅行の回数の多さなどを考慮した結果、Tにチャンスをあげようと90パーセントくらい心に決めた私。
そして帰り支度をしようと、オフィスの自分の机をふとみると、小さな小さなメモ(というよりも指でちぎられた紙切れ)が置いてありました。
そこに一文。
「Can you call my house if I got a space for Belgium trip?」
そして、その隅に明らかに付け加えて、(Please)と括弧付きで書いてあります。
うちの学校の生徒って「Please」と付けないで教師や友達に物を頼んだりしてよく叱られるのです。書き終わってからPleaseを付けないとまずいと思ったのでしょうね。思わずにんまり笑ってしまいました。
しかも読み終えた瞬間、誰が残していったのか直感で分かりました。Tに違いないと。
案の定、裏を見たら彼女の名前が。
これで10パーセントの私の迷いは消えました。括弧つきのPleaseに手で適当にちぎられた紙切れのメモ。彼女のなんというか、ちょっと中途半端な情熱表現に負けたというか、、、。
その後、電話越しで彼女のとても嬉しそうな声を聞いて、この子は当日も大丈夫かなと思いました。もともと参加したい動機が歴史への興味ではなく、ベルギーでのチョコレートショッピングであることは彼女の言動から明らかでしたが、まぁそれには目を瞑ってあげて。
とにかく、明日出発です。(旅行記は来週のブログで)
May 30, 2008
初心にかえる
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今週はハーフターム。
普通の授業はお休みで、試験に向けた補習授業だけがおこなわれています。
私も金曜日は1コマ授業をおこなうのですが、一体何人来ることやら、、、。なにせ、去年は6人くらいの参加でしたから。
さて、ここから本題。
先週の金曜日は研修日(INSETと呼ばれます)でした。生徒は一日早くハーフハームホリデーに入り、この日は校内にいるのは教職員だけ。
研修の目的は、来年度(9月)から7年生に導入される新しい学習指導要領に基づく指導計画を各学科でおこなうこと。
歴史学科も私、同僚Mと同僚K,そして5月中旬から新しくAssistant Headteacher(副校長より1つ下の役職)に就任したベテラン歴史教諭でもある同僚Vで計画を立てることに。
新しい学習指導要領について説明するにはイギリスの歴史教育の概念なども説明する必要があるの